弊ブログのカテゴリー「日本の商道徳」も、かなり体系的にまとまってきたかな~と思います。
これまで石田梅岩(いしだばいがん)等をご紹介してきましたが、その思想的なルーツを深く辿っていくと、江戸時代初期のある一人の禅僧に行き着きます。その人物こそが鈴木正三(すずきしょうさん)です。
… 実は2022年~2023年にかけて、すでに鈴木正三ゆかりのお墓や史跡を巡る現地調査は完了しております。ブログの構成や公開順の兼ね合いで、やっとこさ2025年末の公開となった次第です。汗
今回の記事では、撮影した現地の様子や360°画像を中心に、この「日本の商道徳のルーツ」とも言える人物についてご紹介します。
この記事の目次
禅僧「鈴木正三(すずきしょうさん)」とは?
先ずは、鈴木正三についての人物像や概要をまとめます。その後に、石田梅岩との関係を見て行きましょう。
武士から出家 → 禅憎・ベストセラー作家? 「鈴木正三」異色の経歴
鈴木正三(すずきしょうさん)は、戦国時代末期から江戸時代初期に活躍した人物です。

(豊田市鈴木正三史跡公園内)
1579年(天正7年)に三河国足助庄(現在の愛知県豊田市足助町周辺)で、徳川家康に仕える武士の長男として生まれています。
鈴木正三は早くから仏教などに関心を深め、「宝物集(ほうぶつしゅう)」など多くの本を読んでいました。身分は武士でしたが、戦のない時期にはさかんに禅寺を訪ね、禅僧と問答をするなどして過ごします。
武士(旗本)としては、関ヶ原の戦や大阪冬の陣・夏の陣にも出陣して、武将二人を討つほどの功績を挙げました。しかし、世俗の立身出世よりも仏道の探求を選び、なんと1620年(元和6年)に突然「ふと剃りたり」と出家してしまいます。
出家当時の年齢は42歳ですが、当時の平均寿命は50歳未満という説もあり、現代とはかなり意味合いが違ってきます。人生の最後を見すえ、仏教への思いが溢れたのでしょうか。
… もちろん当時、武士の勝手な出家は許されていません。しかしながら、二代将軍・徳川秀忠の恩情?により「隠居」という形で認められました。

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念願の仏道(禅仏教)に入った鈴木正三は、郷里に戻り熾烈な修行の日々を送ります。そのスタイルは、静かに座禅を組むというよりは、武士としての気概をそのまま仏道に向けたようなものです。
仁王像のように勇猛な心で坐る「仁王禅(におうぜん)」を説いたことが知られています。
また、鈴木正三の活動は自らの修行だけにとどまりませんでした。 仏教の教えを広く庶民に伝えるため、難解な漢文ではなく、読みやすい「仮名(かな)」を使った著作を次々と発表したのです。
その仮名草子(かなぞうし)の代表作『二人比丘尼(ににんびくに)』などは、後の文学(浮世草子)の源流とも言われるほどの評価を受けています。
武士出身の禅憎・鈴木正三は、当時のベストセラー作家という一面もありました。
また仏教書としては、出家前に書かれた『盲安杖(もうあんじょう)』や『万民徳用(ばんみんとくよう)』があり、弊ブログのテーマ『日本の商道徳』と関連するのはこちらとなります。
他に鈴木正三の思想として、「世法即仏法(せほうそくぶっぽう)」という概念が知られています。これは「どんな立場の人でも、心を込めて働くことがそのまま仏道の修行になる」という意味合いで伝えられています。
最後に、禅仏教の専門的な視点もご紹介します。
◆ 禅仏教の歴史から見た「鈴木正三」
鈴木正三 1579〜1655俗姓は三河徳川家の臣穂積氏、俗名 九大夫重三。石平道人(せきへいどうじん)とも号す。関ヶ原や大坂の陣で功があったとされ、物外不遷(もつがいふせん)・雲居希膺(うんごきよう)・愚堂東寔(ぐどうとうしょく)・ 万安英種(ばんなんえいしゅ)等に参じ、42歳で出家、三河恩真寺(愛知県豊田市)に隠棲した。
島原の乱後、天草に赴き「破吉利支丹(はきりしたん)」を著してキリスト教を攻撃した。また江戸に出て、仁王禅(におうぜん)と呼ばれる平易で勇猛な禅風によって、道俗を教化し、仏法即世間法として四民の職業の道を説いた。
その立場は、王法即仏法理論に基づいた、「公儀仏法」ともいうべき体制的なものであった。
出典:駒澤大学禅文化歴史博物館(展示室 B-4「禅僧列伝」より)
パネルの解説にある通り、晩年の鈴木正三は「島原の乱」の後に天草へ赴いています。荒廃した天草の地に行政官的な視点で入り、地域の復興に尽力したという実務家としての側面もありました。
天草から戻った後の最晩年は70歳で招かれ江戸に出て、出家の僧や諸人に法話する生活を送り、1655年(明暦元年)に77歳でその生涯を閉じます。
鈴木正三の墓塔は、郷里であり活動拠点だった「恩真寺(愛知県豊田市)」や終焉の地に近い「長泉寺(東京都八王子市)」などに残されています。
「日本の商道徳」石田梅岩との関係
ここで「石田梅岩(いしだばいがん)」と、鈴木正三の思想的な繋がりに触れておきましょう。

(JR亀岡駅内)
弊ブログでは「日本の商道徳」を扱っている事から、石田梅岩にも注目してきました。両者ともに江戸時代の偉人ですが、実は活躍した時代にはおよそ100年ほどの開きがあります。
… その点は、別記事(石田梅岩と江戸時代の商人思想まとめ)で作成した表が、一目で分かりやすいかと思います。点線の赤枠が「石田梅岩」関係(鈴木正三を含む)で、隣の黄色線は出版物が時系列で並んでいます。

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石田梅岩の詳細については、ぜひリンク先の過去記事もご参照ください。 簡単にご紹介すると、石田梅岩は江戸時代の中頃(18世紀前半)に「日本の商人道」を確立した偉人です。
京都の商家に奉公に出て、独自にその思想を確立しました。著書『都鄙問答(とひもんどう)』において、当時の「商人は卑しい」 「商は詐(いつわり)なり」 「無用の穀つぶし」とされていた風潮に対し以下のように反論しています。
◆ 石田梅岩は「商人」の存在とはたらきを肯定した
「ものを売って利益をとるのは商人の道です。(中略)商人の商売の儲けは侍の奉禄と同じことです。商売の利益がなければ侍が俸禄なしで仕えるようなものです。」
出典:「都鄙問答」中公文庫(巻の二 或学者、商人の学問をそしるの段 / 2-4-15より)
… な、なんと当時のヒエラルキー最上位の「武士」と並べる形で、堂々と「商い」を肯定したのです。(現在の感覚で見ても、身の危険も及ぶのでは?と心配になる大胆発言です。)
「人の人たる道」を探求し続けた石田梅岩の思想は、「正直」「勤勉」「質素・倹約」が特徴です。
石田梅岩は前述の「世法即仏法(せほうそくぶっぽう)」や、問答形式の『万民徳用(ばんみんとくよう)』に見られる「商いを正直の修行とし、私欲を慎むことで道が開ける」など、およそ100年前の鈴木正三の影響を想わせる点がいくつかあります。
その「思想的な重なり」を示す状況証拠?として、実は禅宗を通じた繋がりが残されています。
まず挙げられるのは、石田梅岩の唯一の師の存在です。隠遁の学者であった師・小栗了雲(おぐりりょううん)は、国立国会図書館のレファ協調べによると、禅宗の一派である「黄檗派(おうばくは)」の禅学を収めた人物だった事が指摘されています。(参考リンク)
そして、石田梅岩の高弟・手島堵庵(てじまとあん)は、鈴木正三の著書『盲安杖(もうあんじょう)』に序文や注釈を付け、「石門心学」のテキストとして使用していたのです。

(亀岡市東別院町)
ここで整理すると、鈴木正三 → 小栗了雲 → 石田梅岩 → 手島堵庵と続いた、禅宗の系譜が浮かび上がります。
しかしながら、肝心の石田梅岩と禅宗の繋がりが弱いかな~!と思う方もいらっしゃるでしょう。
… 実は京都府亀岡市にある石田梅岩の生家そばにある春現寺さんは、宗派が「曹洞宗(そうとうしゅう)」なんですよ。
鈴木正三もまた同じ曹洞宗の禅僧だったので、その教えに共鳴しやすかったのかも?と想像が膨らみますよね。

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さらに小ネタですが、鈴木正三が『麓草分(ふもとのくさわけ)』という仏教書を記したのは、丹波国の曹洞宗瑞巌寺に滞在していた時のことと伝えられています。
むむ?「丹波国」と言えば?そうです、まさにこちらの「石田梅岩の生誕地」であります。
- 石田梅岩生家(記念館)・春現寺~瑞巌寺を散策
- A:石田梅岩記念館 〒621-0103 京都府亀岡市東別院町東掛六田18番地(GoogleMapリンク)
- B:春現寺 〒621-0103 京都府亀岡市東別院町東掛火打3(GoogleMapリンク)
- C:瑞巌寺 〒621-0035 京都府亀岡市稗田野町奥条大仲55(GoogleMapリンク)
現在でも車でわずか20分程度の距離(当時でも生活圏内でしょう)の亀岡市内に、鈴木正三が訪れていたと思うと、なんだか非常に感慨深いものがありますね。
※ 石田梅岩の思想は、神・儒・仏などを取り入れ独自に体系化したものです。しかし前述の著書『都鄙問答』内で自らを「儒者」としています。
禅仏教の影響は見られますが、思想の中心はあくまで「儒教」であったと言えるでしょう。
お墓参りへ(八王子市 & 豊田市)
お待たせしました。ここからのパートは、本題の鈴木正三のお墓参りや史跡巡りのレポートです。
記事の冒頭でも述べましたが、訪問は2022年~2023年にかけてのものです。2025年末現在とは、現地の状況や看板の記載などに変化がある可能性もあります。その点だけ、ご容赦くださいませ。
長泉寺(東京都八王子市)へ… 弟子の恵中(えちゅう)と共に
私が「日本の商道徳」のルーツは鈴木正三にあるのでは? と、本格的に興味を持ち始めたのが2022年頃のことでした。
さっそく足跡を調べてみたところ、生まれ故郷は三河(愛知県豊田市)ですが、晩年は江戸に出て活動し、最期も江戸で迎えていることが分かりました。
そして郷土の豊田市以外にも、なんと東京の八王子市「長泉寺(ちょうせんじ)」さんにも墓塔があることが判明したのです。
長泉寺さんの、最寄りはJR高尾駅です。新宿駅からでも約1時間程度のアクセスの良さなので、ある9月初旬の晴れた日に「チャンスだ!」と思い立って訪問してきました。
駅からはちょっと歩くのがキツイ距離なので、炎天下では命の危険も伴います。笑 今回はリサーチ済みであった駅前シェアサイクルを利用した次第です。
- JR高尾駅~長泉寺(鈴木正三墓所)を散策
- A:JR高尾駅
- B:長泉寺 〒193-0824 東京都八王子市長房町1258(GoogleMapリンク)
位置関係は上記のマイマップに記したのでご参照くださいませ。今回は「昭和天皇武蔵野陵(多摩御陵)」の正門を通るルートで、約15分程度のサイクリングです。
到着すると、お寺の隣に少し高くなって木がおい茂った一角がありました。こちらが鈴木正三の墓所となります。

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画像の右側にある階段を上る途中に、墓所についての案内板が立っていました。こちらを転記しておきます。
◆ 石平道人墓
石平道人は、江戸時代初期の禅僧で俗名を鈴木正三といい、萬松山堅叔庵を開山しました。下長房の豪族であった井上出羽が庵を建てて正三道人と弟子恵中を招き、教化を受けたと伝えています。
正三はもと徳川家の家臣で、歴戦の勇士でしたが、元和六年(一六二〇)四十二才で出家し禅門に入り、一宗一派に属せず「南無大強精進勇猛仏」の信仰を唱え、仁王禅を提唱しました。また、浮世草子の源流と言われる仮名草子本の代表作「二人比丘尼」「因果物語」等、多くの著作があります。
明暦元年(一六五五)六月七十七才で没しました。なお、現在の墓所は、昭和二年多摩御陵造営にともない、この地に改葬されました。
出典:八王子市教育委員会
看板の横にある石段を30段あまり上ると、木漏れ日が差し込む墓所が広がっていました。 向かって右側が師である鈴木正三、左側が弟子の恵中(えちゅう)の墓塔となります。到着して、先ずは手を合わせました。

(クリックで拡大)
恵中は、『驢鞍橋(ろあんきょう)』『反故集(ほごしゅう)』を編集・発刊し、鈴木正三の思想・事蹟を後世に伝えました。
江戸時代初期のお墓って、こんな形状しているんですね。鈴木正三の墓塔は五輪塔かは不明ですが、形状に何かしらの意味が込められているはずです。
もちろん弊ブログでお馴染みの360°写真も撮影しておきました。下記の画像をクリックすると、専用サイトでお楽しみいただけます。
指やマウスでぐりぐりと、画像を天地左右に動かしてみてください。

※クリックで専用サイトへ
… 後で知ったのですが、行きしなに通った「昭和天皇武蔵野陵(多摩御陵)」と、「石平道人墓」には実は深い関係がありました。
前述の案内板によれば、鈴木正三のお墓はもともと、私が自転車で横を通り過ぎたあの敷地内にあったとか。笑
なんと昭和初期の国家的なプロジェクトで、こちらにお引越していたようですね。偶然とはいえ、シェアサイクルで移動して良かったなと思いました。
恩真寺(愛知県豊田市)へ… 鈴木正三の郷里であり活動拠点
八王子への訪問から半年が経ち、なかなか良いタイミングを作れずにいました。鈴木正三の郷里・愛知県豊田市に行けたのは、翌年の2023年3月こととなります。
ちょっと日帰りは難しい距離なので、名鉄の豊田市駅そばで前泊 → 翌朝レンタカーで移動というスケジュールにしました。
- 豊田市駅~鈴木正三遺跡でお墓参り~史跡を散策
- A:豊田市駅(名鉄三河線)
- B:豊田市役所 〒471-8501 愛知県豊田市西町3丁目60(GoogleMapリンク)
- C:恩真寺(鈴木正三遺跡内) 〒470-0321 愛知県豊田市山中町曝田100(GoogleMapリンク)
- D:鈴木正三記念館 〒444-2342 愛知県豊田市則定町前田 16(GoogleMapリンク)
- E:鈴木正三史跡公園 〒444-2342 愛知県豊田市則定町(GoogleMapリンク)
- F:心月院 〒444-2342 愛知県豊田市則定町年蔵連7(GoogleMapリンク)
夕方前に豊田市駅着にしたのは、開庁時間内に豊田市役所さんへ立ち寄りたかったからですね。
現地に来ないと入手不可のパンフレットや資料って結構あるので、こちらで鈴木正三に関するものを探しました。
私の訪問時、狙い通り「石平道人 鈴木正三 ーその足跡ー」が配布されていたんですね。資料集めをしていて、地味にうれしい瞬間となります。
※鈴木正三に関するパンフレット類は、顕彰会さんのHP(リンク, 魚拓)でも閲覧可能です。ぜひご参照くださいませ
いざ「鈴木正三遺跡」へ
さてさて、翌朝はレンタカーを借りての出発です。豊田市に来たので、もちろんトヨタです。笑
先ず目指したのは、「鈴木正三遺跡」内にある「恩真寺(おんしんじ)」です。車で20分程度?で景色はすっかり緑豊かな山里エリアに変わり、途中からは生活道路っぽい細い道を通ります。
その分岐点には、「鈴木正三ゆかりの恩真寺←」と黒地の表記が建てられていて分かりやすかったです。
目的地である「鈴木正三遺跡」の駐車場はかなり広く、安心して車を停めることができました。 さあ、いよいよここから遺跡内へと足を踏み入れます。

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エントランス部分には、遺跡全体の案内図が設置されていました。「正三杉(鈴木正三が実際に植えたと伝えられる)」が分岐点になっており、左に進んだ先に恩真寺と鈴木正三が眠る墓地があります。

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こちらは史跡として静かに保存されている場所です。 もちろん常駐の係員さんや受付もありません。一応、事前に豊田市役所さんに電話確認もして、出入りは自由とうかがった次第です。
エントランスを入ってすぐに、車止めとしての開閉式フェンスがあります。施錠はしていないので自分でギギーっと開けて入りましょう!
前述の「正三杉」を左の方向に上がると、左手に修業したと伝えられる「鈴木正三座禅石」が見えてきます。
実は少し身構えて来ましたが、まぁ山道と言うほどでも無い、ゆるやかな坂道と言えるでしょう。10分~15分程度?もしないで、恩真寺と鈴木正三墓所に到着しました。

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こちらが、鈴木正三が山中一帯で修業を積み、草庵を結んだ後に建てた「恩真寺」です。今回の目的である「鈴木正三墓地」は、この本堂のちょうど真裏となります。
本堂の左横を抜けて裏手へ回る途中に、史跡を解説する案内板も立てられていました。
◆ 鈴木正三墓地
鈴木正三は天正七年(一五七九)足助圧則定の徳川氏に仕えた旗本・鈴木重次のもとに生まれ四二歳で武士の身分をすてて出家して七〇歳で江戸に出るまで恩真寺を活動の拠点としました。庶民に独特の実践的な仏教を説き「盲安杖(もうあんじょう)」「万民徳用(ばんみんとくよう)」「麓草分(ふもとのくさわけ)」「因果物語(いんがものがたり)」など多数の著書を残しました。
明暦元年(一六五五)六月二五日、七七歳で江戸駿河台鈴木町の弟・重之の邸において亡くなりました。江戸天徳院で荼毘(だび)にふされ縁の重俊庵、了心庵(江戸)と恩真寺に分骨されて埋葬されました。
正三の木像は恩真寺をはじめ長泉寺(八王子市)、心月院(豊田市則定町)、能仁寺(大分市)、報慈寺(彦根市)に伝えられています。
出典:豊田市教育委員会
… やっと鈴木正三の墓塔に到着したので、先ずは手を合わせます。
周囲はただ風が木々を揺らす音しかしません。 この静かな山里で墓前に立つと、文字通り鈴木正三その人と対面しているような不思議な感覚を覚えました。

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ふと気づいたのですが、この墓塔の形、前年に訪問した八王子市・長泉寺にあるものとよく似ていますね。 (小さな石塔のようなものに囲まれている点も共通しています) おそらく、この時代の禅僧?の墓塔の特徴なのかもしれません。
あと、こちらも360°写真を撮影しておきました。専用サイトで、画像を天地左右に動かしてみてください。

※クリックで専用サイトへ
お墓参りを終え、先ほどの分岐点である「正三杉」まで坂道を降りてきました。
今回は立ち寄れませんでしたが、案内図によるとここをまた右へ上がれば、「荒行の不動滝」や「断食修行の岩穴」などがあるそうです。
続いて「鈴木正三記念館」などへ
さて、続いて向かうのは「鈴木正三記念館」や「鈴木正三史跡公園」などのエリアです。 こちらは、先ほどの恩真寺(山中町)からは少し離れた「則定町(のりさだちょう)」という場所にあります。
再びレンタカーに乗り込み、約15分程度の移動だったかと思います。近くの「則定集会所」に車を停めて、先ずはこちらの「鈴木正三記念館」を見学します。


建物は、古い民家を改装したような趣のある平屋建てです。 周囲ののどかな風景に溶け込んでいて、とても落ち着いた雰囲気が良いですね。
入館料は無料で、何だか申し訳ない気持ちになります。

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館内では入口で靴を脱いで、畳の間に上がります。中は地域の寄合所のような雰囲気で、パネル資料や映像・書籍・資料類などを閲覧することができます。
関係者の皆さんの手作り感もあり、地元の方々がいかに鈴木正三を大切に思っているかが伝わってきました。

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続いて、「鈴木正三記念公園」に向かいます。こちらは2005年(平成17年)に、鈴木正三の没後350年を記念して整備されたそうですね。
こちらへの行き方は、シンプルです。先ほどの「鈴木正三記念館」を背にして、ゆるやかな坂道を上って則定小学校(元は則定鈴木家の陣屋跡)の脇を通っていくだけです。

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広々と整えられた園内に入ると、鈴木正三と、その弟・重成(しげなり)の二人が並んだ立派な石像に迎えられました。 台座に刻まれたタイトルは「きずな」です。
晩年の鈴木正三は、天草の初代代官を務めていた重成の要請を受け、荒廃した天草復興に尽力したと伝えられています。(兄弟の協力を示す像は、地元だけではなく全国の方々からの浄財で建立されたそうです。)
因みに、この公園は則定鈴木家の居住跡でもあるので、鈴木正三と重成の生誕地とも言われているとか。後に、この地に創建した「心月院(しんげついん)」は別の場所に移されています。

現在の「心月院」は、先ほどの「鈴木正三記念館」からは車で数分の距離にあります。こちらでは建物の外観を眺めるだけになりますが、江戸期に彫られた鈴木正三の木像が収められています。
恩真寺にあった案内板の記述によると、鈴木正三の木像はここ心月院のほか、墓塔のある恩真寺、八王子市の長泉寺、さらには大分市の能仁寺、彦根市の報慈寺の計5ヶ所に伝えられているそうです。
あるぞ?!『NHK20xx年大河ドラマ「鈴木正三」』を期待して
日本の商道徳の源流と目される「鈴木正三」のお墓や史跡巡りを通して、その思想や功績に触れてきました。
仏教書である『盲安杖(もうあんじょう)』や『万民徳用(ばんみんとくよう)』を読んでみて感じるのは、職業倫理よりもっと前にある「まじめに仕事をする」という点です。
その「まじめ」の源泉は何だと言うと、「世法即仏法(せほうそくぶっぽう)」の「どんな立場の人でも、心を込めて働くことがそのまま仏道の修行になる」という、非常にシンプルで力強い真理に至ります。
私はただの儒教ファンなので、禅宗について実は全然理解できていません。しかし正三の説く「仁王禅(におうぜん)」のような、あの烈々たる教えには圧倒されました。単純にスゴイな~と思える人物です。
… こうして実際に鈴木正三の足跡を辿ってみると、その波乱万丈でユニークな人物像には何度も驚かされました。個人的に『NHK大河ドラマ「鈴木正三」』は、かなり可能性あると思い込んでます。笑
武士として戦国アクションあり、仮名草子や宗教書としての作家としての一面があり、禅憎として出家して、晩年は天草で復興に尽力し、 最晩年は江戸でその思想を広め最期を迎える。
どうでしょう?現代人が求めているテーマは、すべて扱える気がしませんか? 担当される脚本家さんの腕が鳴る題材で、不足は無いはずです。
もし大河ドラマ化がされたら、特に今回ご紹介した豊田市には「大河ドラマ館」が置かれて、聖地巡りで大いににぎわう事になるでしょう。
そうすれば、弊ブログで取り扱っている「日本の商道徳」にも、より注目が集まるはずです。その(決して遠くない)日が来るのを、楽しみに待ちたいと思います。