商品紹介にプロモーションが含まれています
前回の記事は、新カテゴリー「ヤツの見解(opinion)」の一発目として、大事な話をしました。要点としては、日本の商道徳って『論語』で線引きしたら分かりやすいよ!という内容です。
今回の記事は、「日本の商道徳」の系譜として、各時代のカリスマ(石田梅岩, 渋沢栄一, 倉本長治)を挙げてみたいと思います。
この記事の目次
日本の商道徳の「王道」とは
各時代のカリスマは、中国の古典『論語』に強い影響を受けています。そして「日本の商道徳」への波及をまとめたのが、こちらの図です。
この図は、前回の記事でも提示したものですね。先ずは向かって右側の「覇道(はどう)」が現われ、それを見かねた先人が「王道」を提唱する …という前後関係があります。
【王道】5つのキーワード
- 徳や仁
- (で)与える
- 相手の都合から
- 三方よし
- 善悪で判断
ここで選定したキーワードは、日本の商道徳関連で見聞きしたものからです。結果的には、『論語』のエッセンスが詰まったチョイスとなりました。
… 聖人・孔子の教えは、日本の商道徳にも影響を与えていたのですね!
以下に挙げる三傑のカリスマ(秀でた人物)は、もちろん『論語』に強い影響を受けた方々となります。いずれも『論語』などを通して、自らの思想を発展させました。
「日本の商道徳」のカリスマ三傑(石田梅岩, 渋沢栄一, 倉本長治)
ここからは、「日本の商道徳」に影響をおよぼしたカリスマ三傑を、江戸時代からの経過と共に見ていきましょう。
【「日本の商道徳」のカリスマ三傑】
- ①江戸時代の「石田梅岩」
- ②明治・大正時代の「渋沢栄一」
- ③昭和時代の「倉本長治」
上記の三者を『論語』を通した「日本の商道徳」の系譜として扱いたいと思います。
◆ 先も立ち、我も立つ… ①江戸時代の「石田梅岩」
先ずは、江戸時代の「石田梅岩(いしだばいがん)」の紹介となります。最近では高校の倫理科目で名前が挙がっているようですね。
石田梅岩は、貞享2年(1685年)に現在の京都府亀岡市東別院町に生まれました。家は農家で、二男一女の次男として育ち、11歳の頃には初めて京都の呉服屋へ奉公に出ています。
その後、15歳の頃に商家を辞して実家に戻り、23歳で再び京都に奉公へ出ます。当時としては異例とされる高齢でしたが、今度はそのまま43歳まで勤め上げました。
この2度目の奉公勤めをしている間、じっくりと思想を醸成する期間となったようです。様々な学者の元を訪ね歩き、ついに世にかくれた学者(小栗了雲)に出会い、師と仰ぎました。師を持った石田梅岩は、仕事の傍らに「人の人たる道」「心を知る学問」を追求し続けたのです。
… そして、45歳の頃に、現在の京都市中京区塗師屋町にて、初めての講席を開きます。
この講席は「聴講無料, 出入り自由, 女性もどうぞ」と広く一般民衆(町人)に呼びかけ、当時としてはかなり型破りなものだったようですね。
講席ではもちろん前述の「人の人たる道」を中心に、日常生活の道徳的規範も説きました。さらに、石田梅岩は商人を経験していたので、積極的に「勤勉, 倹約, 正直」と共に営利を肯定しています。
… 実はこの「営利を得る」事の肯定は、当時の空気感からはかなり衝撃的だったかと思います。と言うのも、お金儲けや商人は卑しいという考え方が主流にあったからです。
そんな空気感の漂う江戸時代中期、石田梅岩は後世で語り継がれるビックリ見解を残しました。
◆ 石田梅岩は「商人」の存在とはたらきを肯定した
出典:「都鄙問答」中公文庫(巻の二 或学者、商人の学問をそしるの段 / 2-4-15より)
「ものを売って利益をとるのは商人の道です。(中略)
商人の商売の儲けは侍の俸禄と同じことです。」
なんと商人の利益は、当時のヒエラルキー最上位の侍, 武士の俸禄(お給料)と同じだ!と喝破したんですよね。
これって、当時の知識人が「無用の穀潰し」「潰れても構わん」と、商人を忌み嫌っていた時代の話です。聴講している町人も、相当なインパクトを受けた事でしょう。その後は、京都から大阪・兵庫・奈良方面へも出張して講釈をしていたそうです。
そして石田梅岩は、長年の研究成果として晩年に2冊の著作を残しました。
- 『都鄙問答(とひもんどう)』/ 元文4年(1739年)
- 『倹約斉家論(けんやくせいかろん)』/ 延享元年(1744年)
前者の『都鄙問答』は、問答形式で聴講者などと議論を重ねるものです。石田梅岩はこれまでに、神道, 仏教, 儒教などを独学で学び、思想を体系化してきました。
… 実はその『都鄙問答』での石田梅岩による引用の内訳は、下記のようになっています。
このグラフを見ると、『論語』を中心とした儒教の影響がハッキリ見て取れますよね。本人も「儒者」を公言しているし、石田梅岩思想の中心と見て良さそうです。
その後60歳で亡くなった後は、手島堵庵らの優れた弟子たちの教化運動もあり、「石門心学(せきもんしんがく)」として、全国的に思想が広がりました。
※この章の参考資料:「石門心学の開祖 石田梅岩」(財)石田梅岩顕彰会より
◆ 富は正しい道理でなければ永続できぬ… ②明治・大正時代の「渋沢栄一」
続いて、明治・大正時代の「渋沢栄一(しぶさわえいいち)」の紹介となります。新一万円札の肖像や大河ドラマ「青天を衝け」の放送もあり、飛躍的に知名度も高まりました。
渋沢栄一は、天保11年(1840年)に現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれました。藍玉づくりや養蚕を扱う裕福な半農半商の家で長男として育ち、6歳ごろから教育熱心な父や従兄(尾高純忠)に『論語』などの学問の手ほどきを受けています。
その後は、蚕さながらに何度も脱皮(半農半商の身から尊王攘夷の志士, 一橋家の家臣, 明治政府の官僚, 実業家, 慈善家)を繰り返した人生を送りました。
渋沢栄一の人生の中で再び『論語』に目を向けるのは、33歳で明治政府の官僚を辞して実業界に転身するタイミングでとなります。
◆ 渋沢栄一と『論語』の特別な関係
出典:『論語と算盤』角川ソフィア文庫(第1章「処世と信条」 論語は万人共通の実用的教訓 / 1-5より)
「それは初めて商売人になるという時、(中略)志を如何に持つべきかについて考えた。その時前に習った論語のことを思い出したのである。
論語にはおのれを修め人に交わる日常の教えが説いてある。論語は最も欠点の少ない教訓であるが、この論語で商売はできまいかと考えた。そして私は論語の教訓に従って商売し、利殖を図ることができると考えたのである。」
この引用に続く箇所ですが、仲の良かった同僚に退職の報告をする際「賤しむべき金銭に眼が眩み」と非難されてしまいます。その反論として渋沢栄一は「金銭を取り扱うが何ゆえ賤しいか。君のように金銭を卑しむようでは国家は立たぬ!」と喝破しています。
… このシーンは、商売や金銭に対する当時の賤商観がよく表れていますね。
実業界に転身した渋沢栄一は、約480社の企業の設立に関わった功績から、後に「日本資本主義の父」と称されるほどの活躍を見せました。もちろん上記でも言及しているように、『論語』の教訓に従った商売によって日本の資本主義(本人は「合本主義」と表現)の発展に多大なる貢献をしています。
また、同世代に生きた岩崎弥太郎(三菱財閥の創始者)とは、真逆の考え方だった事を示した「屋形船事件( 明治11年/1878年)」も象徴的です。
岩崎弥太郎は向島の料亭に渋沢栄一を招き、二人での富の独占を持ちかけます。しかし、渋沢は最後まで首を縦に振らずに、なんと宴席を抜け出て帰ってしまったとか …笑
私利私欲よりも、公益を優先した渋沢栄一らしい象徴的なエピソードですね。
渋沢栄一は、日本に資本主義の基盤(ハード面)を整えましたが、その頃の日本人の商道徳(ソフト面)はかなり酷いものだったようです。
渋沢栄一が62歳(明治35年)でイギリスを訪問した際、現地の商工業者から約束を守らない日本のビジネス商人について、大クレームを受けました。この時のショックは大きかったらしく、帰国後は講演で『論語』や商道徳の啓蒙をするようになっています。
… その講演録をテーマ別に編集したものが、渋沢栄一の代名詞にもなっている『論語と算盤』です。初版は、晩年の76歳にあたる年に出版されました。
そして、最晩年が近づく83歳時には、思想の集大成である『道徳経済合一説』の録音が行われています。
こちらは渋沢栄一の肉声が残されたもので、貴重な音源資料です。これら2点は、現在の私たちがその思想を知る際において、最も大切な資料と言えるでしょう。
- 『論語と算盤(ろんごとそろばん)』/ 大正5年(1916年)
- 『道徳経済合一説(どうとくけいざいごういつせつ)』/ 大正12年(1923年)
渋沢栄一は、激動の明治・大正時代を『論語』を携えながら駆け抜けた偉人です。91歳で亡くなった後も、書生の集まりであった「竜門社」が発展を続け、現在は渋沢栄一記念財団としてその教えを伝えてくれています。
※この章の参考資料:「渋沢栄一 「論語と算盤」の思想入門」NHK出版新書より
◆ 店は客のためにある… ③昭和時代の「倉本長治」
最後に、昭和時代の「倉本長治(くらもとちょうじ)」の紹介となります。一般的な知名度はさほど高くないかもしれませんが、日本の戦前・戦後の商店経営において指導者的役割を果たした人物です。
倉本長治は、明治32年(1899年)に現在の東京都港区芝(金杉橋そば)にて生まれました。元禄からの老舗和菓子店の次男として育ちます。その後若くして父母を失い、叔父が住んでいた仙台から旧制中学に進学しています。
この頃には、ミッションスクールのアメリカ人の校長さんのところへ通って、週に一度ずつ英語でバイブルを勉強しました。それに加えて、毎夜のように漢学の先生のところへ通い、中国の古典である『論語』や『孟子』などを素読しています。後に役立つ素養は、この時期に育まれたようです。
卒業後は19歳で海運会社に就職し、香港で生活を送りました。しかし激務がたたり、2年で帰国後に退職となっています。次に務めたのは東京商工会議所の調査課で、外国から来る書類や雑誌を読んでは商工業に関するレポートを発表する仕事に従事しています。
また、この時期に雑誌社へ寄稿するようになり、小売店に関する執筆をする契機になっています。その後は、26歳で商業経営誌「商店界」へ編集長としてスカウトされるなどして、戦前から日本の商店経営に影響力を及ぼしていました。
戦中は海外文献にアクセスできなくなった事から、日本の文学や商道徳(石田梅岩など)を探求する時期になったようです。そして「商店界」が休刊だったために、新興財閥系の出版部門編集長を勤めたわずかな期間がありました。
… 日本の敗戦後にこの経歴が GHQに問題視(戦争協力者)され、要職に就くことが禁じられています。しかし幸運なことに、政治と関係ない寄稿はかろうじて許されました。
そのような経緯から昭和23年(1948年)10月に創刊されたのが、雑誌「商業界」となります。
この雑誌は、倉本長治を慕う仲間たちが集まり創刊されました。もちろん追放中のため、外部からの執筆という形で、経営には参画していません。
とはいえ、雑誌「商業界」は倉本長治の意を汲み、「日本の商業を本道に立ち戻す」使命を帯びていました。敗戦後の日本の商業は、ヤミ物資によるヤミ売買が横行している状況だったのです。そんな荒廃しきった商業の現実を目の当たりにして、強い危機感があったとか。
昭和25年(1950年)11月、当時51歳の倉本長治は追放が解除され、ただちに商業界の主幹と社長に就任します。翌年の1月号の巻頭では、さっそく気負いに満ちた宣言が掲載されました。
◆ 雑誌「商業界」主幹就任時の宣言(『新商人道の建設』)
出典:雑誌「商業界」昭和26年(1951年)1月号より ※現代仮名遣いに修正
「(前略)戦後のヤミ商人は皆、そうであった。今日の商店主も、社会一般も、あの連中を軽蔑して、誰一人、カツギ屋やヤミ屋を本当の商人だとは考える人はない。
つまり、正しい商人というものは、右から左へ移すことによってのみ、不当の利益を取得するものでは無いと知っている、それが証拠なのではあるまいか。
どこが違うのだろうか。あのヤミ屋カツギ屋、社会の敵のように言われた連中と、あなたの今やっている商売と、一体どこが違うのだろうか。
それがご自身、ハッキリつかめないのでは、あなたも軽蔑されるに値する、クダラヌ「ニセ商人」なのかも知れない。」
公職追放時の倉本長治は、全国各地を行脚しながら、商業の混乱や退廃を目の当たりにしていました。上記の宣言中でも言及している、不誠実なヤミ商売の横行です。この行脚で「商人である前に、より良き人間であれ」という、根本的な思想を固める契機になったそうです。
後にその思想は、昭和36年(1961年)「商業界ゼミナール誓詞」としてまとめられました。さらにこの10項目を、各14文字にまで凝縮したのが「商売十訓(しょうばいじゅっくん)」となります。
各10項目については、昭和41年(1966年)に「真商人譜(しんしょうにんふ)」として解説されています。この解説は、新事務所となった商業界会館ビル竣工を記念して、最初に執筆されました。
この「真商人譜」において、『論語』と「新訳聖書」からの引用がみられます。晩年の倉本長治は『論語』の「恕(じょ)」という言葉を好んでました。 …全体的には『論語』のエッセンスが色濃く出た解説文かなと思います。
※「恕」は、自分の望まない事を人にしない(思いやり)といった意味
おそらく倉本長治は、速筆の人だったと思われます。試しに国会図書館オンラインで著者検索してみると、なんと87件もヒットしました。いちファンの私でも、さすがに全部は目を通せなさそうです。
… そこで雑誌「商業界」黎明期の辺りからですが、紙面から倉本長治の優れた論説を3点挙げたいと思います。
- 『新商人道の建設』/ 昭和26年(1951年)1月号
- 『商業界ゼミナール誓詞(後の『商売十訓』)』/ 昭和36年(1961年)1月号
- 『真商人譜(第一講, 第二講)』/ 昭和41年(1966年)5月号, 6月号
倉本長治は昭和57年(1982年)に、83歳で亡くなりました。倉本家の墓所は箱根湯本の早雲寺内にあり、すぐそばには「恕(じょ)」の碑が寄り添っています。
… 残念ながら、雑誌「商業界」は、令和2年(2020年)5月号で休刊してしまいました。寂しい事に、商業界館ビルの解体も進んでいます。
しかし、全国にちらばる同友会の方々が、今も「正しい商い」として商業界精神を伝えてくださっています。
※この章の参考資料:雑誌「商業界」平成28年(2016年)6月号特集「倉本長治と商業界精神」より
今回の「ヤツの見解」まとめ
「日本の商道徳」の系譜として、各時代のカリスマ三傑(石田梅岩, 渋沢栄一, 倉本長治)と『論語』の関係を見てきました。仏教やキリスト教の影響も無視できませんが、儒教の中心教義である『論語』を中心に据えるとスッキリ分かりやすくなるかと思います。
ここで冒頭でも掲げた図を再掲します。向かって右側の「覇道(はどう)」が現われた後に、それを見かねた先人が「王道」を提唱する図式と説明したものですね。
上記の図には記載していませんが、
実は「覇道」が現われる原因として、日本に昔からある「お金儲けや商人は卑しいという考え(賤商観)」も影響しているかもしれません。
それに加え、渋沢栄一が『論語と算盤』の中でも喝破しているように、利益を追求して豊かさや地位を求める事は「人類の性欲」とも言える性質がある事も見逃せません。
… 先ず「覇道」が世に蔓延るのは、もう致し方ない事と割り切るべきなのでしょうか。
それはもちろん、否!ですね。
各時代の石田梅岩, 渋沢栄一, 倉本長治も、決してそれで良しとはしませんでした。「覇道」がまかり通れば、商売やビジネスなんてまともな発展は望めません。
結局は現代においても「王道」こそが、健全な商売やビジネス発展唯一の道なのです!