かつて学校で習った記憶はあっても、今まで読む機会の無かった本って誰でもあるかと思います。…『論語(ろんご)』は、その一冊かも知れませんね。

いざ手に取ってみると、意外と(?)堅苦しくもないし、お説教が並んでいるわけでも無いですよ。

この記事は当ブログで扱う「日本の商道徳」との関りが深い『論語』の概要まとめです。

孔子とは?

孔子とは

 『論語』は東南アジア圏を中心に日本でも長らく読み継がれてきました。人類のベストセラーとして「西の聖書、東の論語」と並べて評する人もいるほどです。

主人公は「孔子(こうし)」です。しかし『論語』は孔子が書いた書物ではなく、語った教えを弟子がまとめた書物となります。

それでは、孔子の人物像から触れていきましょう。

聖人「孔子」のプロフィール / 略歴など

 孔子は現在からなんと約2500年前の中国で活躍した人物です。後世の人々からは「聖人」と称えられています。

孔子の肖像(出典:国立故宮博物院)
孔子の肖像
(画像出典:国立故宮博物院)

孔子の「孔」は現代の名字にあたる氏で、「子」は先生の意味となります。現代風に言うと「孔先生」ですね。

そんな聖人・孔子のプロフィールを下記にまとめました。

◆「孔子(こうし, くじ)」

・ 中国、春秋時代の学者・思想家。
・ 紀元前551年~479年没(司馬遷『史記』の記述)
・ 現在の山東省曲阜である魯に生まれる。
・ 父は農民、母は原儒(土俗的な宗教の祈祷師や巫女)と推測されている。

孔子のイラスト

・ 氏は孔(こう)、名は丘(きゅう)、字は仲尼(ちゅうじ)
・ 早くから才徳をもって知られ、壮年になって魯に仕えた。のちに官を辞して諸国を遍歴し、十数年間諸侯に仁の道を説いて回った。
・ 晩年再び魯に帰ってからは弟子の教育に専心。後世は「儒教」の祖として尊敬され、日本の文化にも古くから大きな影響を与えた。
・ 弟子の編纂(へんさん)になる言行録「論語」がある。

※江戸時代ごろまでは「くじ」と呼ばれていたそうですが、現在は「こうし」で定着しています。

出典:デジタル大辞泉などから

 歴史家である司馬遷が記した「史記」によると、孔子はなんと背丈9尺6寸(現在の2m20cmくらい)の長身で、「長人」と呼ばれていたと伝えられています。

本当にその身長であったかは歴史の謎です。とにかく当時としては大きな体躯を誇ったのでしょう。

東京の湯島聖堂(昌平坂学問所)にある孔子像
湯島聖堂(昌平坂学問所)にある孔子像
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東京の湯島聖堂(昌平坂学問所)にある孔子像は、約4.6mとかなり巨大なものです。
… 言い伝えの2倍近い大きさですが、歴史に与えた影響もまた大きな大きな偉人です。

孔子73年の生涯(『論語』為政第二の四 / 2-4より

 さてさて、孔子はどのような人生を送ったのでしょうか。

先ずは『論語』から孔子が自らの人生観を述べた有名な章句を引用します。(よく四十代を「不惑」と言ったりしますが、その語源となったもの)

◆ 孔子の人生観

『子の曰く、吾れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。七十にして心の欲するところに従って、矩(のり)を超えず。』
(為政第二の四 / 2-4 より)


・ 先生がいわれた、「わたしは十五歳で学問に志し、
三十になって独立した立場を持ち、四十になってあれこれと迷わず、五十になって天命をわきまえ、
六十になって人のことばがすなおに聞かれ、七十になると思うままにふるまって それで道をはずれないようになった。

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫

※『論語』の引用は、先に漢文の書き下し文、後に訳文を表記します。
章句を一つ紹介しましたが、『論語』の文体はこのようにとつとつと語るイメージですね。

文体に慣れないかもしれないので、孔子の人生観を年代ごとに抜粋して整理します。

  • 「十有五にして学に志す」
  • 「三十にして立つ」
  • 「四十にして惑わず」
  • 「五十にして天命を知る」
  • 「六十にして耳従う」
  • 「七十にして心の欲するところに従って、矩を超えず」

ある程度孔子の人生をなぞっている箇所もあるので、言葉とともに見てみましょう。

孔子の誕生から二十代「十有五にして学に志す」

孔子の誕生から二十代「十有五にして学に志す」

◆ 孔子の誕生から二十代

  • B.C.551年、現在の山東省曲阜である魯に生まれる
  • 父は農民、母は原儒(土俗的な宗教の祈祷師や巫女)と推測されている
  • 19歳の頃に結婚をして、翌年に長男の鯉(り)が誕生
  • 成人してからは魯の国の家老である季氏の下で「委吏(いり)」という地方役人に抜擢
  • 孔子は役人にありがちな収賄も受けないことから、季氏から信頼を得た後に司職史(家畜の管理)に出世。


 当時の祈祷師は、文字の読み書きができる知識階級でもあります。孔子は「古代の土俗的な宗教」を身近にして育ちました。

そのような影響からも、父のように農民を選ばなかったのでしょう。知識を武器にして、身を立てようと志しました。

孔子の三十代「三十にして立つ」

孔子の三十代「三十にして立つ」

◆ 孔子の三十代

  • 二十代で短期留学した周の凋落ぶりが心残りとなる
  • 三十五歳のときに魯(ろ)でクーデターが起こる
  • 魯の君主であった昭公(しょうこう)が、有力家老の御三家で小領主である「三桓(孟孫氏・叔孫氏・季孫氏)」と対立して失脚して亡命する
  • 魯の国に絶望した孔子は、昭公のあとを追って斉の国に移る

 短期留学した周で老子(書物『老子』の作者ではない)と面会した孔子は、改めて都会の洗練された礼を学びました。

そのとき孔子は憧れの対象であった「周の国の凋落ぶり」に落胆しました。そしていつか周王朝の善政を復活させようと決心したと伝えられています。

孔子の四十代「四十にして惑わず」

孔子の四十代「四十にして惑わず」

◆ 孔子の四十代

  • 善政復活の夢を捨てきれなく再び魯に戻る
  • 孔子の古典や礼を学ぶ学校が開かれると口コミが広がる
  • たくさんの弟子が集まる
  • 魯の政治は三桓が家臣である陽虎(ようこ)に権力を脅かされ続ける
  • 陽虎のクーデターは失敗して他国に亡命

 後にまとめられた書物『論語』にも登場する、初期の門人である顔淵, 子貢, 子路などの弟子はこの頃に集まります。

そして孔子は40代で後進の育成に着手します。一説には累計3,000人を超えたと伝えられる一大学団が誕生しました。

孔子の五十代「五十にして天命を知る」

孔子の五十代「五十にして天命を知る」

◆ 孔子の五十代

  • 三桓と陽虎の権力争いの結果、魯の君である定公の力が増した
  • 定公は孔子を重用して短期間に出世を後押し
  • 孔子の反対勢力を誅殺

 順風満帆と思われた矢先、魯の秩序回復を脅威に感じた隣国の斉が奇策にでます。なんと美女八十名と名馬百二十頭からなる女楽(女性歌舞団)を送り込みました。

魯の定君と側近は彼女たちの舞楽を楽しみ、三日間政治を放り出してしまいます。孔子は自分の理想とかけ離れた現状に絶望。

… 孔子は官を辞して、弟子たちを引き連れ長い流浪の旅に出ました。出発は孔子が五十五歳から五十六歳のころと言われています。

孔子の六十代「六十にして耳従う」

孔子の六十代「六十にして耳従う」

◆ 孔子の六十代

  • 各国を渡り遊説して回り地位を求めるが採用に至らない
  • 時には七日間も食料が無い状態に陥り困窮した
  • 武器を持った軍に襲われ、弟子たちは武器をとって戦うこともあった
  • 約十五年の放浪に終止符を打ち魯に戻る

 孔子が理想としたのは「愛」や「思いやり」を根底とする『仁(じん)』の政治です。

… 各国の君主は、他国の脅威や配下によるクーデターに気が気でならない状況に置かれていました。孔子の話はまどろっこしくて、現実的では無いと映ったかもしれません。

 孔子が帰国する時点で、魯を離れる原因を作った定公は亡くなっていました。帰国した孔子は、政治の舞台から一線を引いたと言われています。

しかし魯の新しい君主である哀公は、孔子に相談はしていたようです。(帰国時には重臣である国老のポストを用意していた)

孔子の七十代「七十にして心の欲するところに従って、矩を超えず」

孔子の七十代「七十にして心の欲するところに従って、矩を超えず」

◆ 孔子の七十代

  • 政治への参画はしなかったが、魯の哀公(あいこう)の相談は受けていた
  • 孔子の関心は弟子の育成と古典の編集へ
  • 最愛の門弟である顔淵, 古くからの弟子である子路, 息子である鯉(り)が相次いで亡くなる
  • B.C.479年の4月11日に亡くなる

 孔子が帰国した際には、うわさを聞きつけて多くの新しい弟子が集まりました。
そして門弟への指導と共に、孔子が手を付けたのは古典の編纂です。
『詩経』『書経』など古代から伝承されてきた書物の誤字を直したり、歴史書『春秋』の再編集を手掛けました。

そんな孔子の晩年生活に、悲しい出来事が度重なります。門弟の顔淵, 子路と共に息子を亡くしました。
特に顔淵は孔子の後継者と目されていただけに、孔子は人目もはばからずその死を慟哭して悲しんだと言われています。

弟子や息子の度重なる死を経て、孔子は病床で「棺が二本の柱の間に置かれた自分の葬儀の夢」を見ます。

その夢から七日後、孔子は73歳の生涯を閉じました。

… 孔子の理想とした政治(魯の国の開祖である周公の善政)の実現は、存命中には成就しませんでした。

『論語』とは?

論語とは

 何度か失望しながらも弟子に囲まれて天寿を全うした「孔子」の人生を追ってみると、高い理想に燃えていたことが伺い知れました。

『論語』は、そんな孔子のことばが集められています。

『論語』の概要

 日本でも知られている『論語』ですが、「授業で出てきた中国の古典」ぐらいの認識の方は多いでしょう。
「退屈」「長ったらしい」「お説教」といった誤解も散見されます。

… また、改めて触れるケースとしては、経営者の座右の書としてビジネス書などで紹介されたからという声も多く聞きます。

読み継がれてきた『論語』とは、一体どのようなものでしょうか?箇条書きにして並べてみました。

◆『論語(ろんご)』

・中国の孔子の思想がまとめられ、「儒教」の代表的な経典とされる
・散乱した孔子の言行を、孫弟子が集めて編集したと考えられている
・孔子の没(紀元前479年)から約700年後に現在の『論語』が定まった

・本文は二十篇(五百二の章句)で構成
・二十篇を真ん中で区切り「上論」「下論」と呼ばれる
・上下で文体ががらりと変わることなどから、二種が合わされた可能性が高い?(重複個所も多々あり)
・少数だが孔子の弟子を「先生」とした章句もある(孫弟子が編纂に加わっている可能性)

・内容は孔子とその門弟や時の為政者などとの問答が中心
・問答は政治論や道徳論などと幅広く(時には)ユーモアを持って語られる
・言葉足らずで抽象的な表現も多く、後に無数の注釈(朱子学の「新注」など)が生まれる
・日本には3世紀ごろに伝わったとも言われ、最も影響力のあった漢学の書とされる

・「西のバイブル、東の論語」と評する人もいる

出典:デジタル大辞泉などから
論語 (岩波文庫版)

 一般的にも知られている『論語』とはいえ、整理してみると私も知らない事だらけでした。色々と誤解も多いのもうなずけますね。

誤解の一つの「長ったらしい」ですが、『論語』は漢字にしてたった一万三千字程度です。現代語だけ1時間ほど拾い読みしても、半分ぐらいは読めてしまいます。
(書店で見かける本が厚いのは、漢文, 書き下し文, 現代語, 解説が併記してあるため)

『論語』の構成は約一万三千字, 五百十二章句, 二十篇から構成されています。次にそちらを見ていきましょう。

『論語』全二十篇のタイトル(篇名)

 二十篇のタイトルを一気に並べると、ちょっと圧迫感もあるので「上論」「下論」と分けて表記いたします。

『論語』全二十篇のタイトル(上論
1学而第一(がくじ)16章句
2為政第二(いせい)24章句
3八佾第三(はちいつ)26章句
4里仁第四(りじん)28章句
5公冶長第五(こうやちょう)30章句  
6雍也第六(ようや)30章句
7述而第七(じゅつじ)37章句
8泰伯第八(たいはく)21章句
9子罕第九(しかん)32章句
10郷党第十(きょうとう)23章句

各タイトルは、章句の始まりの語句を単純に当てたものです。

… 難しそうな意味が込められてる!と身構えてしまいますが、意外とそうでも無かったりします。

『論語』全二十篇のタイトル(下論
11先進第十一(せんしん)26章句
12顔淵第十二(がんえん)24章句
13子路第十三(しろ)30章句
14憲問第十四(けんもん)46章句
15衛霊公第十五(えいれいこう)42章句 
16季氏第十六(きし)14章句
17陽貨第十七(ようか)26章句
18微子第十八(びし)11章句
19子張第十九(しちょう)25章句
20堯曰第二十(ぎょうえつ)5章句

以上で、全二十章 / 五百二章句の概要となります。

各章のタイトルですが、よく「論語好きならば、暗記は必須事項」とも言われます。それに加えて章句に番号を振れば、住所の番地のようにあとで探しやすくなりますよ。
※ 例として先ほどの「◆ 孔子の人生観」の紹介でも、末尾に「為政第二の四 / 2-4より」と振りました。

… 正直、暗記は大変です。笑 本に番地を書き込むなどして、時間や労力をセーブしましょう。

【小ネタ その1】『論語』は孔子の Twitterまとめ?

 意外に思われるかもしれませんが、『論語』は孔子が著したものではありません。多くが門弟との問いや孔子の答えの記録です。

弟子も孔子の言うことを漏らすまいと、大事に服の帯に書き込んだりしていたこともあったとか。

『論語』を現在で例えると、孔子が Twitterでつぶやいた記録を弟子がこっそり集めていて、その孫弟子が孔子の没後に後世に伝えようと編集して出版するようなイメージでしょうか?

孔子はつぶやき量も多いので、現在だと問題視され大炎上になるような、書き込み(つぶやき)も少なからずあります。笑

【小ネタ その2】「子(し)曰く」は『論語』の代表的なフレーズ

 私が以前抱いていた『論語』のイメージは、正面に座った厳しそうなお爺さんが眉間にしわを寄せながら「子(し)曰く!」と言っている講義です。

さて、この「子曰く」ですが、正確には孔子が話しはじめるときは「子曰(のたま)わく」と書き下します

目上の人(子=先生)が言う場合の表記で、立場が同じような人の場合は「〇〇曰(いわ)く」ですね。

私の性分なのですが、全五百十二章句でこの「子曰く」が冒頭に出てくる回数を数えてみました。

冒頭に多い「子(し)曰く」
(『論語』全五百十二章句から)

全部で二百四十三章句が「子曰わく」で始まるので、なんと約半数(全体の47.5%を)占めているんですね。

… これだけ多く頻出するだけに、強く印象付けられているのかと納得できるデータとなりました。

「仁(じん)」と「恕(じょ)」は『論語』に綴られた孔子の理念

 孔子が生まれ育った魯の国は、実力者である三桓(孟孫氏・叔孫氏・季孫氏)が実権を掌握するなど、混乱した状況にありました。

孔子が理想としたのは、周王朝の文化を創造した魯の国の開祖である周公です。その周王朝の良き時代を再現させようと、孔子が思案して打ち出したのが最高道徳として掲げる「仁(じん)」です。

「仁」がなぜ善政に関わってくるのか?孔子の理念の広がりをイメージ図にしてみました。

孔子の理念(イメージ図)
孔子の理念(イメージ図)
※クリックで拡大

孔子はこの「仁」を自分から身の回りへ広げていき、最終的に国から天下へと推し進めていく政治を理想としていました。

親や家族などの年長者に向けた概念である「仁(じん)」が内包しているのが、人間が自然に持っている真心である「忠恕(ちゅうじょ)」と、両親や年長者に対する敬意である「孝悌(こうてい)」です。

これはやがて他者へと広がり、最終的には「徳治主義」として民衆や国家を治めるように、内から外へ外へ広がっていくイメージとなります。

 

その為には、先ず「己を修めて」最終的には「人を治めようと」したのが孔子の政治理念です。

(後世にこの考え方が発展し、「修身斉家治国平天下(しゅうしんせいかちこくへいてんか)」として、四書のひとつである『大学』に記されました。)

そして、この「己を治めるための道徳律」への段階が、先ほどの「仁(じん)」と「恕(じょ)」という図式です。

「仁(じん)」… 最高道徳の “他人基準”

 この「仁」について『論語』顔淵第十二の冒頭から、門弟からの質問攻めに合う孔子の回答を参照します。

◆ 「仁」とは?(孔子の回答)

『樊遅、仁を問う。子の曰わく、人を愛す。』
(顔淵第十二の二十二 / 12-22 より)


・ 樊遅が仁のことをおたずねすると、先生は「人を愛することだ。」といわれた。


孔子の「仁(じん)」… 最高道徳の “他人基準”

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫より一部抜粋

門弟の樊遅(はんち)の質問に対する孔子の回答は、実にシンプルなものでした。

孔子の「仁」への言及はこれだけでは無く、色々な言葉で門弟に説明します。

「仁」とは?(孔子の回答, その他)

『夫れ仁者は己れ立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。』
(雍也第六の三十 / 6-30 より)

・ そもそも仁の人は、自分が立ちたいと思えば人を立たせてやり、自分がいきつきたいと思えば人を行きつかせてやる。


『仲弓、仁を問う。子の曰わく、(中略)己の欲せざる所は人に施すこと勿(なか)れ。』
(顔淵第十二の二 / 12-2 より)

・ 仲弓が仁のことをおたずねした。先生はいわれた、(中略)自分の望まないことは人にしむけないようにする。」

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫より一部抜粋

ここで「己達せんと欲して人を達す」と「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」と続きました。これらは『論語』の中でも大変有名なことばです。

共に「仁」について語っている大事な場面なんですよね。

このように『論語』の中から拾い集めてみると、「仁」の概要が浮かび上がってきました。

…この「仁」と次に紹介する「恕(じょ)」は近しい概念で、『論語』を普通に読んでいたら似たような意味として流してしまいます。

「恕(じょ)」… 「仁」に至るまでの “自分基準”

 では、どこに違いがあるのか?という疑問に対して、日本資本主義の父とも評された渋沢栄一は「仁」と「恕」について、それぞれ「他人基準=仁」「自分基準=恕」だとしています。

渋沢栄一アンドロイド
渋沢栄一(アンドロイド)

「仁」はを他人基準であるために(実践するのが)難しいレベルにある道徳とするからこそ、道徳として最高位にあるとした見解です。

『論語』の中では、門弟の曾子(そうし)子貢(しこう)の問いに対して回答しているシーンがあります。

「恕」とは?(孔子の回答)

『子の曰わく、参よ、吾が道は一以てこれを貫く。曾子の曰わく、唯。
子出ず。門人問うて曰わく、何の謂いぞや。曾子の曰く、夫子の道は忠恕のみ。』
(里仁第四の十五 / 4-15 より)

先生がいわれた、「参よ、わが道は一つのことで貫かれている。」
曾子は「はい。」といった。先生が出てゆかれると、門人がたずねた、「どういう意味でしょうか。」
曾子はいった、「先生の道は忠恕のまごころだけです。」



『子貢(しこう)問うて曰く、一言にして以て終身これを行うべき者ありや。
子の曰わく、其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿れ。』

(衛霊公第十五の二十四 / 15-24 より)

・子貢がおたずねしていった、「ひとことだけで一生おこなっていけるということがありましょうか。」
先生はいわれた、「まあ恕(じょ:思いやり)だね。
自分の望まないことは人にしむけないことだ。」


孔子の「恕(じょ)」… 「仁」に至るまでの “自分基準”


出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫より

「仁(じん)」と「恕(じょ)」は孔子の理念の中核にあたるものですが、私は渋沢栄一の解釈で序列がはっきりとしました。

「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」が両方で言及されているので、ちょっと混乱する箇所であります。

こちらを、自分基準である「恕」を経て最高道徳である「仁」に至ろう!と整理すると分かりやすいですね。

※参考:『「論語」に帰ろう』平凡社新書 より

「論語」に帰ろう(平凡社新書)

孔子の弟子(四科十哲 / 孔門十哲)たちなど

 先ほどの「仁」と「恕」の説明の中で、門弟たちとのやり取りが出てきました。

孔子の弟子は一説には3000人ほどいたと言われていますが、常にそばにいたのは15人程度ではないか?とも言われています。

実際のところは分からないので、『論語』に登場する門弟を数えてみると約30人ほどになりました。その中でも重要な10人をピックアップします。

四科十哲(孔門十哲)

孔子の弟子(四科十哲/孔門十哲)

 孔子の弟子の中でも、最もすぐれた10人と『論語』内で紹介されているのが、「四科十哲(孔門十哲)」の面々です。

◆ 「四科十哲(孔門十哲)」の紹介

『徳行には顏淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語には宰我・子貢、政事には冉有・季路、文学には子游・子夏。』
(先進第十一の三 / 11-3 より)


徳行では顏淵と閔子騫と冉伯牛と仲弓。言語では宰我と子貢。政事では冉有と季路。文学では子游と子夏。

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫

こちらを整理すると、もう少し分かりやすいでしょうか。

・徳行
①顏淵(がんえん), ②閔子騫(びんしけん), ③伯牛(はくぎゅう), ④仲弓(ちゅうきゅう)
言語
➄宰我(さいが), ⑥子貢(しこう)
政事
⑦冉有(ぜんゆう), ⑧季路(きろ)
文学
➈子游(しゆう), ⑩子夏(しか)

この中でも①顔淵と⑧季路の二人は、『論語』の中でも最注目の門弟です。

最愛の門弟ながら急逝した … 顔淵(顔回)

孔子「賢なるかな回(顔淵)や」

 顔淵(がんえん / 顔回とも呼ばれる)は、孔子最愛の弟子で孔子が七十二歳のときに四十一歳の若さで亡くなりました。

顔淵の肖像(出典:国立故宮博物院)
顔淵の肖像
(画像出典:国立故宮博物院)

この顔淵を孔子は『論語』の全編で、とにかくベタ褒めしています。

◆ 顔淵をベタ褒めする孔子

『子の曰わく、賢なるかな回や。
一箪(いったん)の食、一瓢(いっぴょう)の飲、陋巷(ろうこう)に在り。
その憂いに堪えず、回はその楽しみを改めず。賢なるかな回や。』
(雍也第六の十一 / 6-11 より)

・先生がいわれた、「えらいものだね、回(顔淵のこと)は。
竹のわりご一杯のめしとひさごのお椀一杯の飲みもので、せまい路地のくらしだ。
他人ならその辛さに耐えられないだろうが、回は(そうした貧窮の中でも)自分の楽しみを改めようとしないえらいものだね、回は。」

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫

「賢なるかな回や」と二回も言っていますが、目を細めて嬉しそうにする孔子の姿が浮かんできそうな章句ですね。

また他の章句でも、魯の君主が孔子に「お弟子さんの中で、誰が学問好きと言えるか?」と聞かれて、「顔回です。他に聞いたことがありません(雍也第六の三 / 6-3)」と答えるなど、とにかく孔子からの信頼を受けた門弟でした。

しかし孔子の寵愛を受けた顔淵は、前述したように若くして亡くなってしまいます。

顔淵を亡くした孔子は「天はわしをほろぼした、天はわしをほろぼした(先進第十一の九 / 11-9)」と我を失い錯乱してしまい、弟子の為に激しく身を震わせ慟哭(どうこく)します。

◆ 顔淵を亡くして慟哭する孔子

『顔淵死す。子これを哭(こく)して、慟(どう)す。従者の曰く、子慟せり。
曰わく、慟すること有るか。
夫(か)の人の為めに慟するに非ずして、誰が為にかせん。』
(先進第十一の十 /11-10 より)


顔淵が死んだ。先生は哭泣して身をふるわされた。おともの者が「先生が慟哭された!」といったので、
先生はいわれた、「慟哭していたか。
こんな人のために慟哭するのでなかったら、一体だれのためにするんだ。」

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫

… 孔子の受けた絶望たるや、こちらも身をつまらせられる思いがします。

登場回数1位のやくざ上がり … 季路(子路)

孔子「野なるかな由(季路)は」

 季路(子路ともよばれる)は『論語』の中では言及されませんが、孔子と会った当初は「街のゴロツキ, やくざ」みたいなもので、当初は孔子にも非礼だったといわれています。

季路の肖像(出典:国立故宮博物院)
季路の肖像
(画像出典:国立故宮博物院)

孔子の門弟で最もキャラ立ちしているこの季路は、『論語』の登場回数でなんと断トツの1位を誇っています。

「孔子の門弟」登場回数ランキング
1位(41回)⑧季路四科十哲(政事)
2位(37回)⑥子貢四科十哲(言語)
3位(20回)①顔淵四科十哲(徳行)
⑩子夏四科十哲(文学)
 子帳その他の門弟
※当サイト調べ(『論語 金谷治訳注』岩波文庫より)

実際に手で数えてみると、季路は『論語』内で41回も出ているんですね。

そんな季路の性格に関して、孔子は「野なるかな、由や(がさつだね、由は)」と評しています。(子路第十三の三 / 13-3)

また、勇を好んだ真っすぐ反面、がさつな性格だったことは『論語』内からも十分に伺えます。季路は孔子に平気で口答えをするような門人でもありました。(同上)

孔子はそんな季路の身を案じていました。

◆ 危うい性格の季路

『子楽しむ。曰わく、由がごときは其の死を得ざらん。』
(先進第十一の十三 / 11-13 より)


先生は(優秀な門人にかこまれて)楽しまれた。
ただ、「由のような男は、ふつうの死にかたはできまい。」といわれていた。

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫より、一部抜粋

… 孔子の予感は的中してしまいます。季路は衛の国の高官(荘園管理士)にとりたてられた後に、衛の国の君位を争う内乱で命を落としました。

その際、季路の亡骸は見世物にするため「醢(ししびしお:「食肉を食用や保存用に処理するための塩漬け」を転用した刑罰)」にされてしまいます。

孔子はその話を伝え聞いて、家にあった醢(ししびしお)を全て処分したと伝えられています。

 前述の顔淵も季路も対局な性格の二人の門弟でした。孔子に深く愛されながらも孔子より先に亡くなってしまうなど、これも逆縁といったところでしょうか。

運命の皮肉とはつらいものです。

『論語』内に登場する他の門弟

 前述の「四科十哲」の他に『論語』では、約20人の門弟が登場します。とはいえ一度しか出てこない門弟もいるので、重要な3人のみをこちらに追記します。

◆ 「四科十哲」以外の注目の門弟

⑪曾子(そうし)
→ 孔子の門人。後世への伝承にとって重要な人物。『孝経』の著者と伝えられ、また『曾子』という書物もあった。『論語』中の門人で必ず「子」をつけてよばれるのは、曾子だけ。有子と冉子と閔子とは、あざ名でよばれる。

⑫有子(ゆうし)
→ 孔子の門人。容貌が孔子に似ていたので、孔子の死後、学団の中心に立てようとする企てがあった。

⑬鯉(り)
→ 孔子の子。『孔子家語』によれば、孔子の六十九歳のときに亡くなる。伯魚—孔子の子、鯉のこと。

出典:『論語 金谷治訳注』岩波文庫の注釈などから

⑪曾子(そうし)と⑫有子(ゆうし)のみに「先生」と意味する「子」がつけられたのは、この『論語』を編纂したのが彼ら二人の弟子だったからとした説があります。

… この二人が登場するのは『論語』本編で巻頭を飾る「学而第一」のはじめのほうで、何かの示唆?とも感じられますね。


 今回は『論語』の概要まとめとして、先ずは孔子の人生から振り返りました。そして孔子の思想の背景や中核である「仁」「恕」の解説、代表的な門弟(四科十哲やその他)の紹介までを記したところです。

… ちょっと想像よりボリュームが増えてしまったので、私が好きな「日本の商道徳」との関係はまた別記事でまとめようと思います。

お読みいただき、ありがとうございました。