商品紹介にプロモーションが含まれています

 前回の記事にて、日本の商道徳と関係の深い孔子の『論語』をまとめました。
その思想を発展させた書物『孟子』も、系譜として外せません。

… ここ数年で渋沢栄一に注目が集まっていますが、渋沢栄一の講演集である「論語と算盤」でも『論語』と共に、実はこの書物『孟子』からの引用も多くされているんですよね。

激情家である人物『孟子』は、その思想と同じくどこか危うい魅力もありますが、人情的な面もまた魅力的な思想家となります。

人物「孟子」とは?

 孔子は後世の人々に「聖人」と称されましたが、孟子は聖人に次ぐものとして「亜聖(あせい)」と位置付けられています。

他に「亜聖」と位置付けられているのは、孔子と同じ時代を生きた弟子である「顔回(がんかい)」のみです。

… 孟子は孔子の没後からは、約100年後に生まれた人物で、孔子からは直接の指導を受けていません。

それにもかかわらず、後世に多大なる影響を与えた、孟子という人物。彼は一体どのような人だったのでしょうか?

亜聖「孟子」のプロフィール / 略歴など

 孟子は孔子の没後(紀元前479年)から、約100年後の鄒(すう:現在の山東省鄒城市)で生まれました。

現在から換算すると、約2400年前の紀元前372年生まれと伝えられています。
※明代の「孟子譜」が根拠とされている説より

孟子の肖像(出典:国立故宮博物院)
孟子の肖像
(画像出典:国立故宮博物院)

そして、こちらが孟子の肖像画となりますが、何やら厳しそうな表情が印象に残ります。笑

その印象に違わず、孔子の思想を論敵から守り抜き、発展させたのが孟子その人の生涯でした。

下記に、孟子のプロフィールを抜粋します

◆ 人物『孟子(もうし)』とは

・ 中国、戦国時代の学者・思想家。
・ 紀元前372年~同289年没(明代の「孟子譜」の記述)
・ 現在の山東省鄒城市である鄒(すう)に生まれる
・ 父は不明、教育熱心な賢母の元で育てられる(「孟母三遷」や「孟母断機」の言い伝え)


孟子のイラスト

・ 氏は孟(もう)、名は軻(か)、字は子輿(しよ)
・ 孔子の孫にあたる子思(しし)の弟子から教えをうける
・ 孔子の後継者を自任して、「王道政治」を説くために諸国を遊説した
・ 自説は為政者に聞き入れられず、以降は弟子の教育に専念。

・ 弟子の編纂による「孟子」がまとめられる

出典:デジタル大辞泉などから

孟子が生きた時代は、群雄割拠の戦国時代で、様々な思想(諸子百家)が入り乱れていました。

当時は他の学説が有力になり、孔子の教え(儒教)の影響力は薄れていたそうです。

七社神社(北区飛鳥山公園のそば)にある孔子像と孟子像
※クリックで拡大

書物『孟子』の最後の章に記されていますが、孟子は聖人孔子の教えが途絶えてしまう事を危惧していました。

そのような状況で、孔子の教えを永く後世に伝えるのは自分自身なんだ!と、強い使命感を抱いた心情が伝わります。

書物『孟子』とは?

 『孟子』と聞いて、「性善説」を連想す方は多いのではないでしょうか。

実際に書物『孟子』を読み始めると、孟子の思想は「性善説」を起点としたヒューマニズムに溢れていることに気が付きます。

… また、本書では、やせ我慢を見せたり、論敵に強弁していると思わせるシーンも散見されます。

この辺りも、孔子の教えを論敵から守るために見せた姿勢とも受け取れ、何とも人間臭い部分とも感じられるでしょう。

そのような意外な部分も、人物『孟子』の魅力に間違いありません。

書物『孟子』の概要

 孔子や『論語』ほどの知名度はありませんが、書物『孟子』について、一般的解釈も含めて箇条書きで記します。

◆ 書物『孟子』とは

・ 孟子の思想がまとめられ、儒教における「四書」のひとつとされる
・ 没後に弟子が編纂したと考えられている
・ 孟子の弟子に先生を表す「子」が用いられている箇所がある
・ 唐代(618年~907年)に入り、文人の韓愈(かんゆ)や柳宗元(りゅうそうげん)から評価を受ける

・ 後漢(947年~950年)の趙岐(ちょうき)の注釈により、各篇を上下に分けた全十四篇となる
・ 南宋(1127年~1279年)に朱子が「四書五経」を定め、「孟子」が副読本から一級書の扱いになる
・ 朱子学が「科挙(役人の登用試験)」の科目になり広く普及する
・ 内容は、孟子と諸侯との対話・弟子との問答・孟子のことばが書かれている
・ 日本には奈良時代の伝来と考えられ、江戸幕府に朱子学が官学として採用され一般にも普及した

出典:デジタル大辞泉などから

聖人(孔子)に次ぐ、亜聖(孟子)と称されていますが、特に好んで読んだことがない方が多いでしょうか。

とはいえ、実は私も40代になってから、詳細に読み始めたクチなんですよね。『論語』に関してはざっと調べたので、次はいよいよ書物『孟子』かなと、ぶつかってみた次第です。

…『論語』の章句は短く端的な文だったのですが、書物『孟子』はほぼ文章になっているので、最初は読み難く感じました。

しかし、書物『孟子』では自説の「王道政治」や有名な「性善説」の説明だけではなく、孔子が憧れた「先王の道」も詳細に説明しています。

初学者の私は、不思議なことに書物『孟子』を読み進めているうちに、『論語』の理解も深まったんですよね。

この「先王の道」こそが、孔子や孟子の理想とした政治に他ならないので、これから説明を加えます。

【小ネタ その1】理想とされる「先王の道 (王道政治)」

 中国には古代から天を崇拝する思想があり、天の意思を受けて政治を行う人を「天子」と呼びました。

孔子の教えから成立した儒教では、古代伝説上の帝王である、堯(ぎょう), 舜(しゅん), 禹(う)らを理想の聖天子としています。

孔子の言行録である『論語』や書物『孟子』内では、先王の道をモデルケースとして、尭, 舜, 禹の他に湯王(とうおう), 武王(ぶおう)が挙げられているんですよね。

これらの行った善政こそが孔子のいう「先王の道」としたもので、孟子は「王道政治」と表現しています。

また、暴君による力の政治を「覇道政治」として、古代では悪名高い桀(けつ)や紂(ちゅう)がこれにあたります。

古代中国の帝位の継承には、①禅譲、②世襲、③放伐(易姓革命)の三つの方法があり、暴君の桀や紂はそれぞれ③の放伐により湯王や武王に討たれ、「王道政治」による新たな王朝が建国されました。


書物『孟子』全七篇 / 全十四章句のタイトル(篇名)

 孔子の言行録である『論語』がおおよそ現在の姿に成立したのが、約1800年前の三世紀ごろといわれています。
その以前は、孔子のことばを竹簡などにメモしていたものが、ばらばらの状態だったとか。


孟子は、孔子の孫(子思)の弟子から教えを受けたと言われていますが、活躍した年代は紀元前の三世紀ごろです。
単純に500年ほどの開きがあるのですが、書物『孟子』には『論語』に収められていることばが散見されています。

… おそらく、原『論語』のような体裁は、既に孟子の時代にはあったかもしれませんね。


歴史家の司馬遷「史記」による「孟子荀卿列伝第十四」に、書物『孟子』七篇の記載が残されています。

司馬遷が亡くなる紀元前86年頃には、書物『孟子』が弟子を中心にしておおよそ成立していたことが伺えますね。

書物『孟子』全十四篇のタイトル(上)

 書物『孟子』の章句につけられた名称は、『論語』になぞらえて、文の冒頭を抜き出したものです。

一気に並べると長ったらしいので、岩波文庫版に合わせて上下で分けて表記します。

『孟子』全十四篇のタイトル(
1 梁惠王章句上(りゅうけいおう) 7章
2 梁惠王章句下(〃) 16章
3 公孫丑章句上(こうそんちゅう) 9章
4 公孫丑章句下(〃) 14章
5 滕文公章句上(とうぶんこう ) 5章
6 滕文公章句下(〃) 10章

(上)の大まかな内容としては、「1-2, 梁惠王章句」は遊説する孟子と諸侯の対話、「3-4, 公孫丑章句」は斉に滞在時の弟子との問答など、「5-6, 滕文公章句」は文公との対話や思想家との問答が収録されています。

『孟子』全十四篇のタイトル(下)

 岩波文庫版を手に取ると分かりますが、(上)より文量ボリュームがあるのが(下)となります。

『孟子』全十四篇のタイトル(
7 離婁章句上(りろう ) 28章
8 離婁章句下(〃) 34章
9 万章章句上(ばんしょう) 9章
10 万章章句下(〃) 9章
11 告子章句上(こくし) 20章
12 告子章句下(〃) 16章
13 尽心章句上(じんしん) 46章
14 尽心章句下(〃) 38章

(下)の大まかな内容としては、「7-8, 離婁章句」は孟子の短めのことばが多く集まる、「9-10, 万章章句」は古代の聖人・賢人の事蹟に関する話題、「11-12, 告子章句」は告子らとの人の本性に関する論争など、「13-14, 尽心章句」のこちらも孟子の短めのことばが多く集まるまとめ的な篇が収録されています。

…『論語』が五百二句に対して書物『孟子』は二百六十一句となるので、半分程度と感じるかもしれませんね。

しかし、書物『孟子』は文章形式の章句が多く、文字数では『論語』の約13000字に対して34000字ほどの量となります。こちらを日本語訳にするので、文庫本でも上・下に分かれるているほどです。

「性善説」「王道」「仁義」など『孟子』に綴られた理念

 人物『孟子』が活躍した戦国時代は、道徳が荒廃し、民が窮乏する状況です。

孟子は、軍事力による「覇道政治」を否定し、仁義を掲げた「王道政治」(共に後述)によって社会の変革を志しました。

人物『孟子』が目指したのは、孔子と同じく民衆が安心して暮らせる社会となります。

書物『孟子』には、その想いが全編にわたって溢れているんですよね。

「性善説 / 四端説(したんせつ)」とは

 たとえ『孟子』その人や思想は知らなくても、一般的には「性善説」を知っている方が多いような印象があります。

普段でも、「性善説」と「性悪説」が対になって使われているシーンは、よく散見されますね。

 

この「性善説」は孟子が出典になりますが、その説の基礎となる部分にあたるのがこの「四端説(したんせつ)」です。

そして「四端説」が述べられている章句では、こちらも有名な「人に忍びざるの心有り」の説明があり、「性善説」の原点となる箇所となります。

◆「性善説」の原点(孟子の「四端説」)

『孟子曰く、人皆人に忍びざるの心有り。
先王人に忍びざるの心有りて、斯(すなわち)人に忍びざるの政(まつりごと)有き。
人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行わば、天下を治ること、之を掌(たなごころ)の上に運(めぐ)らすべし。』
(公孫丑章句上 / 3-6 より)


・孟子がいわれた。「人間なら誰でもあわれみの心(同情心)はあるものだ。
むかしの聖人といわれる先王はもちろんこの心があったからこそ、しぜんに温かい血の通った政治(仁政)が行われたのだ。
今もしこのあわれみの心で温かい血の通った政治を行うならば、天下を治めることは珠でもころがすように、いともたやすいことだ。

出典:『孟子(上) 小林勝人訳注』岩波文庫

人は「忍びざるの心」があると孟子は述べますが、「誰でも」が生まれつきであるという論拠として、次の例を挙げています。

◆「性善説」の論拠

『今、人乍(にわか)に孺子(こじゅし:幼児)の将(まさ)に井(いど)に入(お)ちんとするを見れば、
皆怵惕(じゅってき)惻隠(そくいん)の心有り、
(中略)
是(こ)の四端(したん)ありて、
自ら能(あた)わずと謂(い)う者は、自ら賊(そこな)う者なり。』
(公孫丑章句上 / 3-6 より)


・たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ち込みそうなのを見かければ、誰しも思わずハッとしてかけつけて助けようとする。
これは可哀想だ、助けてやろうと(の一念から)である。
(中略)
人間にこの四つ(仁義礼智)の芽生えがあるのは、ちょうど四本の手足と同じように、生まれながらに具(そな)わっているものなのだ。
それなのに、自分にはとても(仁義だの礼智だのと)そんな立派なことはできそうにないとあきらめるのは、自分を見くびるというものである。

出典:『孟子(上) 小林勝人訳注』岩波文庫

「人に忍びざるの心(あわれみの心 / 同情心)」を構成するのが、「四端説(四つの芽生え)」となります。

この四つの要素こそが、どこかで聞いたことがある「仁義礼智(じんぎれいち)」ですね。

… 以上を図にまとめると、こんなイメージになるでしょうか。

◆「四端説」の要素(仁義礼智)

「仁」… 惻隠の心(そくいん:他人を憐れみ同情する)
「義」… 羞悪の心(しゅうお:自分の悪口を憎む)
「礼」… 辞譲の心(じじょう:他人に譲る)
「智」… 是非の心(ぜひ:善悪を判断する)


この心を押し広げ、さらに孔子の義を発展させたのが、「王道政治」の根幹というわけですね。

「王道政治」「覇道政治」とは

 「戦国の七雄」が群雄割拠した戦国時代は、武力による弱肉強食の世界でした。

そんな時代下でも、孟子は孔子の仁を踏まえた「王道政治」を提唱しているところに、強い信念が感じられます。

書物「孟子」には、その「王道政治」と「覇道政治」について、簡潔に述べられている箇所があります。

◆「王道政治」「覇道政治」とは

『孟子曰く、力を以って仁を仮(か)る者は覇(は)たり。覇は必ず大国を有(たも)つ。
徳を以て仁を行う者は王たり。
王は大を待(ま)たず、湯(とう)は七十里を以てし、文王は百里を以てせり』
(公孫丑章句上 / 3-3 より)


・孟子がいわれた。「表面だけは仁政にかこつけながら、ほんとうは武力で威圧するのが覇者である。だから、覇者となるには、必ず大国の持ち主でなければならない。
身に着けた徳により仁政を行うのが王者である。
王者となるには大国である必要はない。湯王は僅か七十里四方、文王は百里四方の小さな国からでて、遂には天下の王者となった。」

出典:『孟子(上) 小林勝人訳注』岩波文庫

この王道政治の本質が、先ほどの「四端説」に裏打ちされた「性善説」ですね。

さらにこの「王道政治」について、斉の宣王(せいのせんのう)に説明している章句もあります。

斉の宣王は、いけにえに捧げられる牛が引かれていくのを見て不憫に思い、羊に変えさせたのです。
人民はその話を聞いて、斉の宣王が大きなものを小に変えたと揶揄しますが、孟子はこれを大きく評価しました。

◆「王道政治」に不可欠な資質とは

『斉(せい)の宣王問いて曰く、
(中略)
徳如何(いか)なれば、則ち以て王たるべき。
曰く、民を保(やす)んじて王たらんには、之を能(よ)く禦(とど)むる莫(な)きなり。
(中略)
故に王の王たらざるは、為さざるなり、能わざるに非ざるなり。』 
(梁恵王章句上 / 1-7 より)


・斉の宣王がたずねられた。
(中略)
「どんな徳があれば、王者となれるのだろうか。」
孟子はこたえられた。「別に格別の徳とてはいりません。ただ仁政を行って人民の生活を安定すれば、王者となれます。これを、なんびととても妨害はできません。
(中略)
ですから、王様が王者となられないのは、なろうとなさらぬからであって、できないのではありません。」

出典:『孟子(上) 小林勝人訳注』岩波文庫

「王の王たらざるは、為さざるなり」と、はっきりと述べているのが孟子らしい箇所でもありますね。笑

… そして、斉の宣王が引かれていく牛に情けをかけるのだったら、人民の生活も安定するはずでしょうと、孟子は述べています。

 

孟子の唱える王道の政治は、やはり孔子と同じように自らの内にある最高道徳である「仁」に合わせて、「義」を提唱しています。

自分から近いものに及ぼしていく過程を、そのまま政治にあてはめればよいという考え方ですね。

孟子の理念(イメージ図)
※クリックで拡大

ちなみに、孔子の言行録である『論語』には、最高道徳の「仁」と「恕(じょ)」という概念が出てきますが、書物『孟子』には見当たりません。

 

「恕」は、論語の「衛霊公第十五の二十四(15-24)」にて、弟子の子貢との会話から導かれていて、「自分の望まないことは人にしむけないこと」で思いやりのような意味で使われています。

私の想像ですが、この「恕」は比較的に新しく『論語』に加えられた箇所で、孟子の時代には伝わってなかったのかなと思っています。

「仁義」とは(孟子の決意, 孔子の後継者を自任)

 書物『孟子』は弟子が編集したと考えられていますが、その編集方針は『論語』よりも分かりやすくなっています。

亜聖『孟子』の決意は、書物の冒頭と最後に示されています。(ここは注目の箇所です!)

壮年期の孟子が遊説活動を開始して先ず訪れたのが、大国である梁(りょう)の惠王の国でした。戦国時代の為政者らは、諸子百家とよばれるブレーンを大事に扱っていた時代です。

そのような時代背景で、孟子の足労をねぎらう梁の惠王とのやり取りが、書物『孟子』の冒頭を飾るプロローグとなります。

◆書物『孟子』の冒頭で示した決意

孟子梁の惠王に見(まみ)ゆ。王曰く、
叟(そう)、千里を遠しとせずして来る。亦(また)将に以て吾が国を利するあらんとするか。
孟子対(こた)えて曰く、王何ぞ必ずしも利を曰わん。亦(ただ)仁義あるのみ』
(梁惠王章句上 / 1-1 より)


・孟子がはじめて梁の恵王にお目にかかった。王がいわれた。
「先生には千里もある道をいとわず、はるばるとお越しくださったからには、やはり(ほかの先生がたのように)わが国に利益をば与えくださるだろうとのお考えでしょうな。」
孟子はお答えしていわれた。「王様は、どうしてそう利益、利益とばかり口になさるのです。(国を治めるのに)大事なのは、ただ仁義だけです。」



出典:『孟子(上) 小林勝人訳注』岩波文庫


… 約2000年後の現在から見ても、このやり取りはかなりのインパクトがあります。笑

孟子の遊説活動の時系列は、書物『孟子』の並び通りに諸国を遊説したと見るのが通説になっています。(実はこの後の遊説は大苦戦を強いられます)

最初に、自らの立場を明確にする意図もあったのでしょうか?大胆な提言ですが、孟子の意気込みを強く感じた次第です。

 

この意気込みの根源は、巻末のまさに最後の章句にはっきりと書かれています。

◆書物『孟子』の巻末で示した決意

『孔子より而来(このかた)、今に至るまで百有余歳。聖人の世を去こと此(かく)の若(ごと)く其れ未だ遠からず。
聖人の居に近きこと此の若く其れ甚(はなはだ)し。
然而(かくのごとく)にして有ることなくんば、則ち亦(また)有ることなからん』 
(尽心章句下 / 14-38 より)


・孔子から今日までわずか百余年。聖人の時代を去ることまださほど遠くはない。
また、聖人の居られた魯(ろ)の国とここ趨(すう)の地とは、かくも甚だ近い。
時も所もかくまで近いのに、もし今にしてこの聖人孔子の道を見て知って伝えるものがないとするならば、今後はついに伝え聞いて知る者がなくなってしまうであろう。

出典:『孟子(下) 小林勝人訳注』岩波文庫

… 私はこの最後の言葉の後に、なにかふしぎな余韻を感じました。

様々な解説書の補足を拾い上げてみると、その余韻の意味も色々と広がっていきます。


上記を引用した岩波文庫版では、「(この聖人の道を永く後世に伝えるものは、自分を措(お)いて外(ほか)にいったい誰があろうか)」とあります。

また、角川文庫版では、「(だから私は孔子の道を伝えることをやめない)」と補足されています

孔子が亡くなって100年が経とうとしていた戦国時代下では、「諸子百家」と呼ばれる様々な思想が生まれて孟子は競争にさらされました。

孟子の評価は没後から約1000年後にやっと高まりますが、この激しいまでの意気込みで、孔子の教えを死守したことが分かります。

この印象的な余韻を残して、書物『孟子』の完結です。

この余韻を、日本の幕末の思想家である吉田松陰が『講孟剳記 (こうもうさつき)』で言及して、「後世の人に期待する気持ちが言葉に秘められている」と述べています。

【小ネタ その2】遊説で伝わらなかった孟子の理想

 壮年期(55歳前後?)に入った孟子は、師である孔子と同じく遊説活動を開始しました。

孔子の後を継ぐと自任した孟子は、満を持して遊説活動に出ましたが、実はこちらも理想の政治が成就されませんでした。

前述の歴史家司馬遷による「史記」によれば、最初に訪問した梁の恵王は、孟子の王道政治を「迂遠(うえん)にして事情に疎(うと)し」と述べたと伝え、あまり評価されなかったことが分かります。

「浩然の気」とは

 書物『孟子』を読み進めていくうちに不思議に感じることは、孟子が全編を通して自信満々なところです。

王に謁見しても、全然ひるまずに意見をするし、何か空気の読めなさも目立ったりします。しかし、孟子は悪びれる様子もなく、全然気にしないんですよね。笑

そんな孟子が辿り着いた境地は「浩然の気(こうぜんのき)」だと、感覚を頼りに言語化しているシーンがあります。

◆ 孟子が辿り着いた境地

『敢えて問う、何をか浩然(こうぜん)の気と謂(い)う。
その気たるや、至大至剛にして直く、養いて害(そこな)うことなければ、則ち天地の間に塞(み)つ。』 
(公孫丑章句上 / 3-2 より)


・公孫丑がまたいった。「ぜひ、うかがいたいのですが、その浩然の気は、いったいどういうものなのでしょう。」
孟子はこたえられた。「言葉ではなかなか説明しにくいが、
この上もなくつよく、しかも、正しいもの。立派に育てていけば、天地の間に充満するほどにもなる。」

出典:『孟子(上) 小林勝人訳注』

こちらが、どんな境地に立たされようと、孟子が持ち続けていた境地ですね。同じ章句では四十代になってこのような境地にたどり着いたことも吐露しています。

書物『孟子』に登場する門弟

 孟子もかつての孔子と同じように弟子を抱えていましたが、書物『孟子』で出てくる主要な弟子はそう多くありません。

また、書物『孟子』の編集者も、すぐれた弟子を孔子の「四科十哲(孔門十哲)」のように評することもありませんでした。

… しかしながら、孟子の代表的な門弟は誰なんだろう?と思い立って、書物に登場する回数をまた私が実際に手で数えてみました。

「孟子の門弟」登場回数ランキング
1位(17回) 公孫丑(こうそんちゅう)
2位(15回) 万章(ばんしょう)
3位(7回) 公都子(こうとし)
4位(5回) 楽正子(がくせいし)
陳子(ちんし)
※当サイト調べ(『孟子(上)(下) 小林勝人訳注』より)

トップの二人(公孫丑と万章)は、章のタイトルにもなっていますね。

弟子の中でも、彼らは孟子と数多くの問答をしているので、書物『孟子』の中で登場回数を伸ばした感があります

書物『孟子』に登場する門弟は、全部合わせても14人です。『論語』内で孔子の門弟で登場する30人と比べても、少ないので混乱せずに済みますね。

その他の孟子の門弟の名前だけ、下記に紹介します。

◆孟子の門弟(その他)

・孟仲子
・充虞
・高子
・徐辟(除子)
・陳代
・彭更
・咸丘蒙
・屋廬子
・桃応

※当サイト調べ(参考図書:『孟子(上)(下) 小林勝人訳注』より)

司馬遷の史記には、書物『孟子』は弟子の万章らと七篇(現在の上下十四篇)を記したと伝えられました。

しかし、書物『孟子』には数人の弟子にも先生を表す敬称の「子」がついていることから、孫弟子あたりが編纂したとする説があります。


 書物, 人物『孟子』の概要として、聖人孔子との関係やその思想背景をざざっと解説してみました。思想の中核である、有名な「性善説」や「王道」「覇道」などですね。

孔子と『論語』についてまとめた前回の記事でも、門弟を紹介したところで一区切りとしました。このサイトの趣旨である「日本の商道徳」との関わりも含めて、また別記事にまとめたいと思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。