当ブログではこれまで「②売り手(日本の商道徳)」に注目してきました。その延長として、日本の商人や商道徳の系譜を体系的に整理しようと思います。(昨年、やっと倉本長治を取り上げる機会がありました。今回はその流れをさらに発展させてみます。)
… この記事では、昭和の商業指導者・倉本長治を通して、江戸時代に「商人道」を確立した石田梅岩と、日本商人の思想ヒストリーをひも解きます。江戸時代の町人文化が発展した時代から、敗戦後の高度成長期、さらには昭和時代に至る変遷を共に探っていきましょう。
この記事の目次
「日本の商人道」をつなぐ二人の偉人
先ずは二人の偉人(昭和時代の倉本長治, 江戸時代の石田梅岩)と、その思想的な繋がりを見ていきます。昭和から江戸の時代をつなぐことで、日本の商人やその商道徳の系譜が明らかになりそうです。
倉本長治と雑誌『商業界』
倉本長治(くらもとちょうじ)は、日本の戦前・戦後の商店経営において指導者的役割を果たした偉人です。明治32年(1899年)、現在の港区芝に生まれました。
敗戦後の昭和23年(1948年)10月に創刊された雑誌である、『商業界』の主幹(GHQによる追放解除の昭和25年(1950年)11月から)をつとめた人物です。
この雑誌は「日本の商業を本道に立ち戻す」使命を帯びて誕生しました。敗戦後の日本の商業は、ヤミ物資によるヤミ売買が横行している状況だったのです。そんな荒廃しきった商業の現実を目の当たりにして、強い危機感があったとか。
倉本長治は公職追放時に、敗戦した日本の各地の商業の現場を視察します。そして、不誠実なヤミ商売の横行を目の当たりにして、「商人である前に、よき人間であれ」という境地に達しました。
その思想はのちに「商売十訓」を経て、「店は客のためにある」という一節に集約されます。このことばは『商業界精神』を表し、戦後の商人たちを正しい方向に導きました。
~ 雑誌『商業界』のエッセイ ~
前述したように、倉本長治は雑誌『商業界』の主幹をつとめた人物です。GHQによる追放解除後からは、自ら巻頭のエッセイを書き続けています。内容は商業のテクニカルな話から、商人道のような精神的な話まで多岐にわたりました。
毎月このような随筆風のエッセイや評論コラム記事を書いていたので、膨大な原稿の資産が残ります。後にこれらの原稿はテーマごとに再編集され、書籍として出版されました。
その出版スタイルについて、晩年のエッセイ「何かしらのこしたい(1977年2月号)」に詳しく書かれています。自嘲気味に「著作は多く出したが、それは雑誌原稿がたまったから本にした風なものばかりだ」と述べ、他にも「マトモな著作者とはいえない」「どこまでも雑誌記者的ブックメーカーであった」と謙遜?もしながら、残してきた仕事を回顧しているのが印象的です。
… 倉本長治は速筆の人だったと聞いています。おそらく得意な文章の長さやスタイルは、雑誌のエッセイ単位だったかも知れません。
この記事の本題である「日本の商人道」に話を戻しましょう。その倉本長治の筆による「日本の商人道」関連書を、年代順に並べてみました。
- 倉本長治の「日本の商人道」に関する著作一覧
※1 「国会図書館デジタルコレクション」は長いので、「国会図書館DC」と末尾を略して表記しています。上記の著作①④(送信サービスで閲覧可能)は、利用者登録をするとご自分のデジタル端末でご覧いただけます。この機会にご登録をおススメします。
※2 「Amazonペーパーバック」も長いので、「AmazonPB」と末尾を略して表記しています。絶版タイトルですが、オンデマンド印刷(ソフトカバー)の本で入手可能です。
※3 表記のない本は、図書館や古本屋さんで探してみてください。
※4 上記の他に『商人論語(1961年)』『孫子と商法(1962年)』『商人と仏教(1973年)』などもあります。
私はこの中で、波線を引いた①『商人と人生』と⑥『石田梅岩ノート』の二冊が、重要&おススメと捉えています。その説明は後ほど加えるので、先ずは大まかに倉本長治の思想潮流を見ていきましょう。
上記のリストで書き下ろしは、②『商人の心の書(全六巻)』のみで、他は雑誌の原稿をまとめた例のスタイルとなっています。前述のエッセイでも「自分の仕事一つぐらい後々まで残しておきたい」と考え、執念で書いた本だとありました。
初期に書かれた①②の題材は、世界の聖典や聖人に関するものです。①『商人と人生』については、1956年7月~1957年3月に設けられた連載「商店と聖典」のまとめで、9人の聖人(クリスト, パウロ, 孔子, 孟子, 釈迦, 孫子, ソクラテス, 日蓮, 親鸞)を挙げています。
①に続く②『商人の心の書(全六巻)』は、改めてクリストと弟子, 孔子孟子, 仏陀, 孫子など, ソクラテスを書き下ろし、人間としての根本的な部分(商人である前に、よき人間であれ)を何としても日本の商人に紹介したかったと思われます。
… ここで、雑誌「商業界」の世界の聖典や聖人を扱う流れはひとまず終わり、新たなテーマへ移行します。
②『商人の心の書(全六巻)』と同じ年に、③『日本商人史考』が出版されています。その前年には、紆余曲折を経て建設された「商業界会館ビル」が、竣工されていました。そのビルで最初に書かれたエッセイが「真商人譜(1966年5月6月号)」です。
こちらは前述の「商売十訓」をひも解いたもので、この頃から「日本の商人道」への啓蒙が、ハッキリと明確になっていきます。
その流れで要注目のエッセイが、「ゼミナール商人道(1975年3月臨時増刊号)」です。こちらは商業界ゼミナール25周年を記念した増刊号で、江戸時代あたりから後述する『商売往来』などを紹介して「日本の商人道」について詳しく述べています。
そのエッセイ内にて、日本の商人史で初めて「ハッキリとした商人倫理を打ち出した」と高く評価したのが江戸時代の石田梅岩となります。
⑥『石田梅岩ノート』には、少々の編集が加えられ「倹約こそ万(よろず)の根源」という章で掲載されています。石田梅岩が打ち出した商人倫理は、昭和時代の倉本長治へと受け継がれました。前述したように、戦後の倉本長治はヤミ市を目の当たりにして、「商人である前に、よき人間であれ」と思い至り、その商人道は「商売十訓」 「店は客のためにある」へと昇華しています。
… 私の以前からの疑問として、どのようにして倉本長治がそれらの信念に思い至ったのか?そのメカニズムは?というのが、気になっていました。ただ、おそらく例のエッセイ単位の文章が、どこかにあるはずと確かな感触もあった次第です。
そうして、やっとドンズバ文章を見つけたのは、①『商人と人生』内からでした。先で紹介した「世界の聖典や聖人」を扱った、初期(1957年)の著作というのも興味深いです。こちらの冒頭にある 序, 商人と人生, よき商人への途 の項がそれに当たります。
詳しくはまた別の機会にしますが、正しい商人は、なぜよき人間でなければならないか? 正しい商人は、なぜ儲けなければならないか? を通じて、正しい商人は、なぜ客のためにあらねばならないか? という、一連の疑問は氷解されるかと思います。
上記の経緯から、波線を引いた①『商人と人生』と⑥『石田梅岩ノート』の二冊が重要&おススメとしました。江戸時代から昭和時代までの「日本の商人道」が、きれいに繋がりますよ。
石田梅岩と著書『都鄙問答』
次に、江戸時代の石田梅岩(いしだばいがん)についても触れていきましょう。先ほど倉本長治が指摘したように、日本の商人史で初めて「ハッキリとした商人倫理を打ち出した」偉人です。貞享2年(1685年)、現在の京都府亀岡市東別院町に生まれました。
農家の次男として生まれたため、11歳で京都の呉服屋に奉公にでます。その呉服屋の経営状態が悪化してしまい、15歳で家に戻りました。その後は23歳で再び奉公にでますが、当時としては異例の高齢でのことです。まじめな働きぶりで、この商家では43歳まで勤めています。
この頃に「人の人たる道」を思索し始め、奉公しながら様々な学者の元を訪ねました。しかし、師事するような人物に出会えず、長らく悶々としていたそうです。そして遂に、隠遁の学者である小栗了雲(おぐりりょううん)に出会い、道が開けます。
その後は商家を辞し、享保14年(1729年)現在の京都市中京区塗師屋町にて、自らの講席を開講しました。45歳になった石田梅岩による、啓蒙活動の始まりです。
講席の特徴は「聴講無料, 出入り自由, 女性もどうぞ」と、男女も問わずあらゆる一般民衆(町人)に呼びかけた点です。儒学を中心に神道, 仏教などを取り入れ独自に体系化された講席では、前述の「人の人たる道」を中心に、日常生活の道徳的規範も説きました。
この学問は、「石田梅岩の心学」を意味する『石門心学(せきもんしんがく)』と呼ばれ、その後広く普及する事になります。
~「心学講舎」での問答 ~
講席では、様々な問答が繰り広げられたようです。その問答を通して、さらに独自の思想を深めたのでしょうか。晩年に書かれた二冊の著作には、問答形式が多く取り入れられています。
- 石田梅岩の著作一覧
- 『都鄙問答(とひもんどう)』/ 元文4年(1739年)
- 『倹約斉家論(けんやくせいかろん)』/ 延享元年(1744年)
倉本長治が「ハッキリとした商人倫理を打ち出した」と言っているのは、前者の『都鄙問答』によるもので、後世に語り継がれる見解となります。
◆ 石田梅岩による「日本の商人道」の確立
『ものを売って利益をとるのは商人の道です。(中略)商人の商売の儲けは侍の俸禄と同じことです。商売の利益がなければ侍が俸禄なしで仕えるようなものです。』
『商人は正しい利益をおさめることで立ちゆくので、それが商人の正直です。利益をおさめないのは商人の道ではありません。』
出典:『都鄙問答』中公文庫(巻の二 「或学者、商人の学問をそしるの段」より)
この頃は、お金儲けや商人は卑しいという考え方(後述する「賤商観」)が主流でした。そんな空気が漂う中、石田梅岩は商人の利益は、当時のヒエラルキー最上位である武士の俸禄(お給料)と同じだ!と喝破しました。そんな事を言ったら、身に危険が及ぶのでは?と思ってしまうような見解です。聴講していた町人らにも、相当なインパクトを与えた事でしょう。
…ここで、倉本長治の見解も見てみます。
◇ 倉本長治の筆:石田梅岩について(1/16)
『人間そのものには上下なく、商売にも貴賤なしとして「真の商売は先も立ち、われも立つもの也」と見て町人が、社会的下位に在る謙譲さの意義や主客相互尊重の立場を明確にし、だから奉仕と正直の精神が商業道徳の根幹であるという説を樹立した点に関する限りでは当時の漢学者などに比べてはるかに卓見ありとして良い。』
出典:➄『異才商人』商業界(「商人倫理の確立者」より)
『都鄙問答』に書かれたこの「先も立ち、われも立つ」は、石田梅岩の商人道を現した名言として知られています。
◆ 石田梅岩の名言「先も立ち、われも立つ」
『世の中の様子を見れば、見かけは商人のようで実は盗人がいます。本当の商人は相手方もたちゆき、自分もたちゆくことを考える。
ごまかす商人は人をだましてその場だけをすませます。これを同じようにひとまとめにして言うことはできません。』
出典:『都鄙問答』中公文庫(巻の二 「或学者、商人の学問をそしるの段」より)
石田梅岩の思想に沿って、講席で参加者の問いに答える様子を著したのが『都鄙問答』です。こちらは実際の問答記録では無いと思います。石田梅岩の思想を分かりやすく伝える術として、うまく編集されたものでしょう。この書では、平易なことばで言うところの「正直」 「勤勉」 「質素・倹約」が大事なんだと説かれています。
後者の「質素・倹約」については、亡くなる年に刊行された『倹約斉家論(けんやくさいかろん)』で詳しく述べられました。下記は、その一節です。
◆ 石田梅岩による「倹約」と「けち」の違い
『実に徒然草にも、「世を治る道は、倹約を本とす」といへり。蓋し倹約と云う事、世に多く誤り吝き事と心得たる人あり。
左にはあらず。倹約は財宝を節く用ひ、我分限に応じ、過不及なく、物の費捨る事をいとひ、時にあたり法にかなふやうに用ゆる事成べし。』
出典:『日本思想大系42 石門心學』岩波書店(「斉家論 下」より)
この「質素・倹約」で大変に誤解が多いのが、「けち」と混同されてしまう点です。上記でも「世に多く誤り吝(しわ)き事」とあるように、しみったれたドケチの事ではありません。加えて「世を治めるやり方として」、『徒然草(第184段)』の兼好法師が指摘したのは「倹約を基本とする」という先人の叡智でありました。
そして「時にあたり法にかなうように用いるべし」とあるように、いざという時や場合に応じられるよう備えるのが「質素・倹約」の本質です。
もちろん倉本長治もこの「質素・倹約」を評価し、「日本の商人道」の本質だと捉えています。
◇ 倉本長治の筆:石田梅岩について(2/16)
『ひとりの精神生活の安定は万人の生活安定にも通じる。一銭を大切にする心が天下の富を大切にする心となる、これが倹約だというのである。その道にこそ商人道がある。これに励むのが商人の本分、厳粛な義務なのだと説いているのが梅岩だ。
私はこの梅岩に、日本の商人の倫理確立の萌芽を認める。商人道の最初の提言者でもあった彼は、ここに商売の原点をわれわれに提示していたのではないか。』
出典:雑誌『商業界』1975年3月臨時増刊号(エッセイ「ゼミナール商人道」より)/ 資料⑥『石田梅岩ノート』商業界(「倹約こそ万の根源」より)
「日本の商人道」は江戸時代の石田梅岩によって、たいへんに強固な基盤が確立されました。商人は正当な利益を得るために働くんだ!と、堂々たる主張がされたのです。
… その約200年後、「日本の商人道」は倉本長治により、正しい系譜として現代まで伝えられました。一方で、商業評論家から「石田梅岩の現代版」と批判されることもあり、古い考えと揶揄されることが多々あったとか。
しかし、このクダラナイ批判こそ、倉本長治が石田梅岩による「日本の商人道」の正統な系譜である証拠、と言えるのではないでしょうか。
石田梅岩と江戸時代「日本商人」の成り立ち
私たちの実生活でも「江戸時代」という言葉を、普段からよく見聞きします。しかし「江戸時代」は、約260年も続いた長い長い時代区分です。「江戸時代のいつ頃か?」という点は、整理しておくべきでしょう。
例えば、上記は江戸時代の深川佐賀町を再現した、深川江戸史料館さんにて撮影したものです。こちらの時代設定がいつ頃かと言うと、1840年頃(天保末期)となります。黒船ペリーの来航が1853年(寛永6年)なので、そろそろ江戸時代も終わりに差し掛かるタイミングです。まぁ言われないと、分かりませんよね。笑
… その辺りを整理するために、かんたんな年表を作成してみました。
この表の見方として、タテ軸の真ん中に「石田梅岩」関係を置き、ヨコ軸の真ん中を大きく占めるのが「江戸時代」となります。このように整理すると、前述の石田梅岩は江戸時代前期~中期の人物だったと分かりますね。
こちらの年表を使用して、次の章から「日本の商人道」の成り立ちを見ていきます。
江戸時代の「三大改革」と幕府直轄の「学問(朱子学)」
その前に補足を二つほど付け加えます。これらは石田梅岩にも強く影響を与えた、かなり重要なポイントなので確認しておきましょう。
表の向かって左側「時代と背景」列の中から、江戸時代の「三大改革」と「学問」についてとなります。
一つ目は江戸時代の「三大改革」についてです。江戸幕府は、徳川家康が征夷大将軍に任じられ、1603年(慶長8年)に成立しました。
江戸時代は約260年に渡る、長く安定した統治です。有名な「三大改革」もあり、江戸時代の節目としても知られています。
- 江戸時代の「三大改革」による区分
- 【前期】江戸幕府の開府~
- 【中期】享保の改革(第8代将軍・徳川吉宗)~
- 【後期】寛政の改革(老中・松平定信), 天保の改革(老中・水野忠邦)
江戸時代を「前期 / 中期 / 後期」の三区分に分けてみました。為政者が改革を断行する情勢ですから、その前に何かしら発生しています。端的に言うと、経済の発達により力を付け過ぎた商人に対し、幕府は武士に有利な経済体制を保とうとしたのです。
… それと同時に、バブル経済のような空気感で、様々な文化が発達した事も挙げられます。文化的な視点からも、区分が発生していたと言えそうです。
これらの改革による「引き締め」は、商人各々が自らの存在を見つめ直し、強くなるキッカケとなります。そうして、投機的商人や御用商人(特権的な政商)たちが消え、「新たな商人」が生まれました。
二つ目は江戸時代の学問についてです。江戸時代後期の1797年(寛政9年)、幕府公認の学問として「儒学(朱子学)」が採用されます。その背景としては、学問好きで知られた第5代将軍・徳川綱吉の存在がありました。
「儒学(じゅがく)」は、中国の古典『論語(ろんご)』で知られる思想家「孔子(こうし)」を祖とする学派です。宗教的な側面も持ち、「儒教(じゅきょう)」とも呼ばれています。「論語」は約1800年前に孫弟子たちによって編纂された、孔子の言行を記録した書物です。実は日本への伝来は仏教よりも早く、5世紀ごろとされています。
特に、為政者のブレーンとして活躍した禅僧たちは、この「儒学」や「儒教」に強い関心を示しました。身分秩序を重んじるその思想は、安定した社会の維持に適していたからでしょう。
1630年(寛永7年)には、幕府の儒官・林羅山(はやしらざん)により孔子を祀る聖堂が、上野の忍ヶ岡に建てられます。その後、聖堂は第5代将軍・徳川綱吉の命により、1690年(元禄3年)に現在の湯島へ移転しました。
第5代将軍・徳川綱吉は、参拝後にみずから講義するほどの学問好きでありました。このような経緯から、聖堂の学問所がそのまま学問の中心になっていきます。
そして、1787年(天明7年)に老中に就いた松平定信により、推奨された「儒学」の中でも「朱子学(しゅしがく)」以外の学問を禁止(寛政異学の禁)とする令が出されました。林家が主宰していた学問所も、幕府直轄の「昌平坂学問所」と改められます。
「朱子学」は元々あった儒学の解釈に、新しい注釈を施したものです。上下関係を過度に重んじるので、封建社会を維持するのに最適な学問だったと言えるでしょう。(「寛政の改革」により、政治批判や風俗をみだすものも禁止された時代です。)
石田梅岩の思想も、この儒学(「朱子学」寄り)が中心です。とはいえ、他に神道, 仏教なども取り入れているのが、思想の特徴とも言えるでしょう。前述の著書『都鄙問答』内でも自らを「儒者」と称し、聖人孔子などの言葉を数多く引用しています。
「日本の商人道」成立・成熟のあらまし
さて、この段落から「日本の商人道」に関する書籍からの引用と倉本長治の筆を並べ、その成立過程などを見ていきたいと思います。
【江戸時代・前期】戦乱の世から「太平の世」へ
約260年におよぶ江戸時代は、「太平の世」と謳われる安定した時代を迎えます。その前は、各地の大名が争う血なまぐさい戦国時代が続いていました。徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利し、1603年に江戸幕府を開府。天下統一を果たし、国内統治の礎を築きます。
江戸幕府の体制は、第2代将軍・秀忠、第3代将軍・家光の時代に本格的に整備されました。この頃には、鎖国体制も確立し、対外関係を制限する政策が進められます。一方で国内では、将軍と大名が土地と人を支配する幕藩体制が構築され、長期にわたる安定を実現しました。
商人は忌み嫌われていた… 「商は詐なり」「賤商観」「貴穀賤金」
商人は、国や時代を問わず、しばしば嫌われる存在として描かれてきました。江戸時代にも「商は詐(いつわり)なり」という言葉が広まり、商人の出身地に結びつけた蔑称として「近江泥棒、伊勢乞食」と言われたりしました。また、「商人と屏風は曲まねば立たず(直ぐには立たぬ)」とまで言われています。
特に江戸時代の武士階級や知識人の間では、商人や金銭を賤しいものと見なす「賤商観」が根強く存在していました。これは、農業を尊び商業を軽視する価値観である「貴穀賤金」とも結びついています。
…ではここで、当時の知識人が商人に対して抱いていた蔑視の感覚を見てみましょう。時代をまたいだ5つの実例を並べてみました。
◆ 知識人の「商人」蔑視(1/5)
『八郎の真人は、商人達の親方である。商売の利益ばかりを追求して妻子の事を構わず、自分ばかりを大切にして他人を顧みない。
一を元でにして万の利益を積み立て、土塊をころがして黄金としかねない。甘言を弄して他人の心をとろかし惑わし、謀略をめぐらして、他人の目玉を抜きかねないようなしたたか者である。』
出典:『新猿楽記』平凡社(「八郎の真人 商人」より)
先ずは江戸幕府の成立から500年以上前の、平安時代中期の書物『新猿楽記(しんさるがくき)』(成立は1050年頃?)からの一節です。貴族の藤原明衡(ふじわらのあきひら)によるもので、当時流行した猿楽(さるがく)を見物する人々を通して、当時の風俗を描写しています。
… ここで書かれている「商人(八郎の真人)」の描写を初めて見た時に、私自身大きなショックを受けたことを覚えています。それは、この後から紹介する江戸時代の商人に対する評価が、もう既に平安時代中期に現れていたからです。
◆ 知識人の「商人」蔑視(2/5)
『すべて商人というのは、高利をむさぼって世渡りをするものであるから、現在でも一夜に分限者になったり、また一日の間につぶれたりもするが、これももともと生活の根拠が不安定だからである。
(中略)商人は不安定な世渡りをするもので、その善悪は右に述べたとおりである。だから商人がつぶれることは、まったく気にかける必要はない。』
出典:『荻生徂徠「政談」現代語訳』講談社学術文庫(巻二「武家が米穀を貯蔵すること」より)
江戸時代前期の大学者である、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の提言書『政談』からの一節です。特に赤線を引いた後者の部分は、当時の知識人の見解として、数多く引用されています。(いつ見ても、本当にひどい言われようですね)
◆ 知識人の「商人」蔑視(3/5)
『学者— 商人たちは、つね日ごろ、人をだまして利益を得ることを仕事としています。』
『学者— 商人は欲深く、いつも貪ることを仕事としている。』
出典:『都鄙問答』中公文庫(巻の二「或学者、商人の学問をそしるの段」より)
前述の石田梅岩『都鄙問答』からの一節です。「商人の商売の儲けは侍の俸禄と同じ」と喝破したあの段は、学者が問答相手で議論がヒートアップしていく様子が印象的です。上記は学者の問いの中から、商人へのひどい蔑視を語った部分となります。
◆ 知識人の「商人」蔑視(4/5)
『町人と申候は、ただ諸人の禄を吸取り候ばかりにて、ほかに益なき者に御座候。実に無用の穀つぶしに候(上書)』
出典:『商人の知恵袋』PHP文庫
江戸時代後期(寛政期)に経世家として幕府にも提言した、林子平(はやししへい)による『富国建議(上書)』内の有名な一節です。これもまた、ひどく商業を蔑視していますね。
◆ 知識人の「商人」蔑視(5/5)
『それ商人は恒の産、恒の心なく、その身賤しきを極め、武家百姓そのほか諸民に謙り、売買の間に利潤を掠め取りて、世を渡る者なり。然るに二百有余年の治平に随ひ、年々歳々に世の利潤を掠め取る事の積りて、今町人の分限剛勢になれり。
(中略)商人はその極りたる事なく、利益次第、欲情働き次第にて、風水早の患ひもなく、年貢もなく、公役もなく、誠に当世にては上もなき勝手を得たるものなり。』
出典:『世事見聞録』青蛙選書(五の巻「諸町人の事」より)
最後に紹介するのは、江戸時代後期の武陽隠士(ぶよういんし)による「世事見聞録(せじけんぶんろく)」の一節です。独特な著者の名はペンネームで、本名は明らかになっていません。恐らく下級武士階級の裕福な浪人者が名を隠して書いたのでは?と言われています。
武陽隠士はこちらの著書で、「寛政の改革」とゆるんだ世相に批評を加えました。コイツは上記のような調子で、本書の全編にわたって何かしら文句を言い続けます。前述の「近江泥棒、伊勢乞食」も同じ章で述べられ、「商人は程よき盗賊」とまで罵られました。(この独特の論調がまた面白いので困ります)
知識人が「商人」に対する蔑視を露わにした記述を、一通り見てきました。ここで倉本長治の見解も見てみましょう。
◇ 倉本長治の筆:貴穀賤金の風潮について(3/16)
『商人が武士である儒者たちからヒドク屈辱され、憎まれているのは、その時代(元禄・享保の頃)から商人が少しずつ経済的に豊かになり、社会的地位も向上し、それまでの武士の前には頭も上がらなかった身分だったのに、金銭的に困りはじめた武士に対してなんとなく優位を占め始めたので、
これに対する武士族の反感というか、崩れ行く封建制度を守ろうとする彼らのあがきのようなものの現われとも見えるのである。』
出典:資料⑦『商いの倫理』商業界(「道義社会の建設」より)
平安時代中期には、すでに「賤しい商人」の姿が描かれていましたね。そして江戸時代の初期には、後述する幕府の御用商人らが台頭します。彼らは花街を貸し切って豪遊するなど、大気な浪費グセを持ちました。
… このような振る舞いは、武士側に「商は詐なり」と再認識させ、危機感を抱かせるには十分だったでしょう。もちろん「社会的」には武士が上ですが、「経済的」には徐々に商人が力を付けつつある時代でした。この点が話をややこしくしている要因かも知れません。
泡のように消えた御用商人… 「特権を悪用」「大気な浪費グセ」
江戸時代初期を代表する御用商人と言えば、「紀文(きぶん)」こと紀伊国屋門左衛門(きのくにやぶんざえもん)や「奈良茂(ならも)」こと奈良屋茂左衛門(ならやもざえもん)の名が挙がるでしょう。
紀文と奈良茂は共に、幕府の御用商人(材木商)として富を築きました。「火事とけんかは江戸の華」と言われたように、江戸の町は何度も大火で焼失しているので需要は膨大です。
紀文は老中・柳沢吉保らに取り入り、上野寛永寺根本中堂の用材を請け負います。奈良茂は日光東照宮の修復工事の請負に絡んでいます。加えて、江戸は数度の大火災もあり、彼らの商売はとにかく隆盛をきわめました。
しかし、これらの御用商人は特権を悪用して富を築いたとも言えます。
◇ 倉本長治の筆:悪徳商法三か条(4/16)
『「紀文」を思うたびに、私は商人として最も軽蔑すべき事が三つあるのを想起する。それは、
一、嘘をついて他人をゴマカスことである。
二、他人の不幸を利用して儲ける事である。
三、他人の無智につけ込んで商売することである。
「紀文」という人はその第二の方法によって巨利を博したと伝えられ、昔から商人の手本のように言われてきたが、江戸の大火で材木が値上りすると見るや、山林に手金を打ってこれを買占めて不当に儲けるなどは(中略)悪徳である、と私には思えるのである。』
出典:資料③『日本商人史考』商業界(「開花期 商人文化の花, 咲き競う」より)
… ここで倉本長治が述べている「悪徳商法三か条」は良い定義ですよね。紀文や奈良茂は江戸時代でも有名な商人で、豪商とも称されました。しかしこの定義に当てはめると、評価はまた別となります。
紀文と奈良茂(4代目)は、豪奢を競い合いました。花街を貸し切ったり、節分の豆まきに小粒銀を混ぜたりなど伝説も多く残されています。また、この時代は十八代通(じゅうはちだいつう)と呼ばれた、江戸の通人の中の通人の豪奢も知られています。十八大通の多くは、主に蔵前の札差(ふださし)と呼ばれる、禄米を換金する商人が占めました。
… この世の春を謳歌した彼らですが、没落も早かったようです。幕府内のパイプ役が要職から外れると同時に、紀文や奈良茂の特権も失われました。廃業した紀文はひっそりと余生を過ごし、奈良茂は息子や手代に「絶対に商売に手を出すな」と遺言を残して亡くなっています。
権力と結び強引に富を築く悪徳商法は、あまり長続きしませんでした。
長者(お金持ち)になりたい… 「家業に励む」「倹約(始末)」「知恵と才覚」
江戸時代の初期には、前述の御用商人の他にも、たくさんの富豪が生まれています。1627年(寛永4年)に刊行された『長者教(ちょうじゃきょう)』は、賢い少年が3人の富豪にその秘訣を聞く…という話が中心の教訓書となります。著者は不明(倉本長治の見立ては『子孫鑑』を記した寒河正親)ながらも、当時よく読まれた書物です。
かまだや(鎌田屋), なばや(那波屋), いずみや(泉屋)は、それぞれ京都に実在した富豪と言われています。語られているのは、堅実に家業につとめ、倹約して利殖にはげむ等といった正攻法が中心です。あっと驚くような、商売上の知恵や才覚は二の次として扱われています。
3人の富豪の秘訣の後に、「つねにたしなみの事」「けいこすべき事」などの教訓集が続きます。ここで『長者教』の最後の一節を、じっくり見てみましょう。
◇ 倉本長治の筆:長者教について(5/16)
『なににつけても、金のほしさよ。ソレ金は火に入りても損せず水に入りてもくもらず、いよいよ光ますものなれば、かまだや、なばや、いずみや、この三人の金言をよくよく分別して一分一厘にても、おろそかにつかうべからず。これ長者のこころなり。』
出典:雑誌『商業界』1981年5月号(エッセイ「御身こそ大長者」より)
冒頭の青線部分は、「金欲し付合(かねほしつけあい)」と呼ばれる、当時流行した言葉遊びです。どんな句の下にも付きて、雰囲気を一変させる狙いがあります。もし上の句が格調高い名句だとしても、この強烈な下の句で狂歌っぽい感じに。笑
そんな強烈な冒頭部分に続き、お金が欲しい(長者になりたい)なら、わずかなお金でもおろそかにするなという警句で結んでいます。先ほど見てきた御用商人とは、真逆な考え方です。
そして、この『長者教』から約60年後に、新たな革命的スタイルの書物が誕生しました。1688年(元禄元年)刊行の『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』です。著者は上方の井原西鶴(いはらさいかく)で、俳諧師としての伝説的な面もありますが、浮世草子(娯楽性の高い読み物)の名作を多く残した事でも知られています。
『日本永代蔵』の副題には、「大福新長者教(だいふくしんちょうじゃきょう)」と付けられました。明らかに前述の『長者教』を発展させた位置づけです。内容は教訓を並べた『長者教』と異なり、全30話からの物語で構成されています。
… 出世や成功だけでななく没落も描いた同書は、日本で初めての経済小説と言われています。
◇ 倉本長治の筆:井原西鶴について(6/16)
『私には後年の彼が銭ほど面白きものはなしと思って筆を執った町人物の「日本永代蔵」「世間胸算用」「西鶴織留』の外の作品には何の興味もなく、若い頃から西鶴全集は幾度となく手にしたが、これ以外には、面白いといわれる「一代男」も「五人女」も眼を通したことがない。』
出典:資料➄『異才商人』商業界(「鶴屋藤五と阿蘭陀流」より)
ここで倉本長治が述べているように、井原西鶴の他の有名な浮世草子としては、好色物である「好色一代男」「好色五人女」なども挙がるでしょう。しかし、町人物として挙げられた上記の3作品には、私自身も大いに面白さとや魅力を感じています。それぞれの物語が描く人間模様は、どれも面白くホントに驚かされるからです。
町人物としての生き生きとした描写は、井原西鶴の多くの作品に共通しています。その中でも、井原西鶴の代表作でもある『日本永代蔵』収録の30話は、奇抜なアイデアで富豪になる話や驕りから衰退する様子など、人生の教訓が面白おかしく描かれています。
◇ 倉本長治の筆:井原西鶴について(7/16)
『井原西鶴の「日本永代蔵」において始めて、商人の成功にはアイデアとか才覚と呼ばれるものこそ大切なのだということが大きく提唱されたのだった。しかし、西鶴には「如何にして儲けるか」だけしか無く、如何に在ったら正しいのかが欠けていた。』
出典:雑誌『商業界』1975年3月臨時増刊号(エッセイ「ゼミナール商人道」より)/ 資料⑥『石田梅岩ノート』商業界(「倹約こそ万の根源」の一部より)
… ここまでで『長者教(それにつけても金の欲しさよ)』から『大福新長者教(銭ほど面白きものはなし)』への発展を見てきました。誤解されがちな点ですが、どちらの書物も儲けかたの指南が書かれていながら、決して派手なアイデアや才覚だけが必要とは説いていません。
むしろ資本が少ない人でも、まじめに家業に取り組み、倹約を心がければ、ある程度の富を築けると希望を残しています。
◆ 井原西鶴のユーモアと誠実さ
『長者丸という妙薬の処方をご伝授しよう。
△早起き五両 △家業二十両 △夜業八両 △倹約十両 △達者七両
と、合わせてこの五十両の薬を細かく砕いて粉にし、十分に気をつけて秤目にまちがいのないようにして調合に念を入れ、これを朝晩飲みこんだら、長者にならないということはありますまい。』
出典:『新版 日本永代蔵 現代語訳付き』角川ソフィア文庫(巻三の一「煎じやう常とはかはる問薬」より)
こちらが有名な「長者丸(ちょうじゃがん)」の一節となります。知恵や才覚のない凡人でも、上記の5項目を薬に見立て、これをまじめに朝と晩に服用す(戒め)れば… という井原西鶴流のユーモアです。
この後に続きがあり、薬の効き目を妨げる毒として、下記の16項目を断て!と勧めています。
◆ 井原西鶴の戒め
『これに加えて大事なことは、なによりも毒断ち(服薬の妨げとなる飲食をさけること)をすることである。
〇美食と好色と、絹物を不断着にすること 〇女房を乗り物にのせて贅沢をさせ、娘に琴・歌がるたをせること 〇息子に鼓や太鼓など種々の遊芸を習わせること 〇蹴鞠・楊弓・香会・連歌・俳諧に耽る事 〇座敷普請・茶の湯道楽 〇花見・舟遊び・昼風呂入り 〇夜歩き・博奕・碁・双六 〇町人に無用な居合・剣術 〇寺社参拝・後世の安楽を願う心 〇諸事の仲裁と保証の判をおすこと 〇新田開発の出願と鉱山事業にかかわること 〇食事のときの飲酒・煙草好き・目的のない京上り 〇勧進相撲の資本主になること・奉加帳の世話役 〇家業のほかの小細工、金で刀の目貫を装飾してひけらかすこと 〇役者に見知られ、揚屋と近づきになること 〇月八厘より高い利息の借金
まずこれだけを、斑猫・砒霜石よりも恐ろしい毒薬と心得て、口に出して言うことはもちろん、心に思ってもいけない。』
出典:『新版 日本永代蔵 現代語訳付き』角川ソフィア文庫(巻三の一「煎じやう常とはかはる問薬」より)
逆に言うと、当時の商人が身持ちを崩す原因は、この16項目が中心だったのかもしれませんね。この金言を守り、まじめに商売に向き合えば、現代でも富を築くことができそうです。
… しかし、倉本長治が指摘するように、これらの話は「いかにして儲けるか」という面に限られています。「正しさ」の方向性は示唆していますが、まだ「商道徳」と呼べるような倫理観には至っていないと言えるでしょう。
三井越後屋の革新性… 「現金(安売り)掛け値なし」「大商人の手本」
秀でた商人の出身地にからめた悪口で、「近江泥棒、伊勢乞食」があると前述しました。現在でも日本の代表的な百貨店として名高い三越さんのルーツは、後者の伊勢・松坂地方にあります。多くの伊勢商人は江戸に出て、呉服などの商いを広げていきました。
当時の呉服屋は、店先に座って接客(店の奥からいくつかの反物などを出して見せる)をしていました。そこから「伊勢乞食」と言われてしまったようですね。
現在の大伝馬町あたりに、多くの伊勢商人が大店(おおだな)連ねました。その様子は「江戸名物、伊勢屋稲荷に犬のクソ」とまた別の悪口で言われたように、当時の江戸は伊勢商人の店・稲荷神社・犬の糞が多く目についた事が伺われます。
三井越後屋(現在の三越)は、本町1丁目(現在の日本橋本石町)に出店して大きな成功をおさめました。その成功をねたんだ同業者によって、なんと便所を店の台所に向けて作る嫌がらせまであったようです。その後は、大火事の被害などの諸事情もあり、三井越後屋は後に駿河町(現在の日本橋室町)に移転しました。
この移転は大成功!となり、お客が「千里の野に虎を放ったような勢い」で来たとまで伝えられています。三井越後屋の成功は、前述の井原西鶴『日本永代蔵』でも「大商人の手本」とまで讃えられました。
◆ 井原西鶴も大絶賛した革新者
『これはまたうまい商いの道はあればあるものである。三井九郎右衛門という男は、手持金の威力で、昔の慶長小判とゆかりのある駿河町という所に、間口九間、奥行四十間に棟の高い長屋造りの新店を出し、すべて現金売りで掛値なしということに定めて四十人余りの利口な手代を自由にあやつり、一人に一種類の品物を担当させた。
(中略)そんなふうであるから、家業が繁昌し、毎日金子百五十両平均の商売をしたという。世の調法(重宝)とはこの店のことだ。この店の主人を見るに、目鼻手足があって、ほかの人と変わったところもないが、ただ家業のやり方にかけては人とは違って賢かった。大商人の手本であろう。』
出典:『新版 日本永代蔵 現代語訳付き』角川ソフィア文庫(巻一の四「昔は掛算今は当座銀」より)
「三井九郎右衛門」とありますが、もちろん実在の「三井八郎右衛門(代々の三井家当主)」がモデルとなります。この当時は「三井の元祖」とされる、三井高利(みついたかとし)です。
三井高利が発明した商法の中でも特筆すべきは、「現金(安売り)掛け値なし」です。高級服飾品であった呉服は、武士などの富裕層の屋敷に持参して交渉により値段を決め、代金は掛売り(節季払い)で処理するのが慣習でした。その慣習を打破したのが、この三井高利の数々のアイデアとなります。
町民でも「現金払い(正価販売)」や「切り売り」にて呉服が買えるとしたインパクトは相当だったはずです。しかも「掛け値(値引きを前提にした偽りの価格)」ではなく、誰でも同じ価格で呉服が購入できます。つまり、世界最初の正札販売宣言により、新しいマーケット(他店が敬遠したであろう、町民の切なる需要)を、ま正面から堂々と切り開いたのです。
三井越後屋から産み出された様々な商法は、日本初にとどまらず世界初とも言われています。その革新性は、商業経営の専門家であった倉本長治の眼からは、このように映ったようです。
◇ 倉本長治の筆:三井越後屋について(8/16)
『ともかく、のこされた文献などから、次のような画期的な経営方針が、いずれも、その「越後屋」によって創始せられたことがわかるのである。しかもそれは、わが国で最初であったばかりではなく、実に世界で誰ひとり考えなかったことばかりであることに驚歎せざるを得ないではないか。その店が、今日の「三越」となったのである。
一、正価販売 ニ、現金販売 三、返品自由 四、部門別主任制 五、分類記号単品管理 六、高回転主義 七、低利幅主義 八、マニュアル制度 九、リモート・コントロール組織 十、分業仕立方式 十一、切り売り方式 十二、端物特売 十三、安売りイメージ作成 十四、オリジナル既製品販売 十五、サービス傘貸出し
こんにちの百貨店三越の基盤が、すでにこのころに築かれて行ったこともむべるなるかなである。』
出典:資料③『日本商人史考』商業界(「開花期 商人文化の花, 咲き競う」より)
… この挙げられた15項目を見ると、やはり商いには「知恵や才覚」が必要だと見えた方がいるかも知れませんね。
それではここで、三井家に伝わっていた教訓書『町人考見録(ちょうにんこうけんろく)』を見てみましょう。この書は三代目三井高房によって、父・高平が見聞したさまざまな商人の盛衰を記録したものです。書物の最後に書かれた「跋(ばつ)」には、家業が大事なんだと警報を鳴らしていました。
◆ 三井家秘伝の家訓より
『絶対に家業以外のことに心を使ってはならない。町人が武士のまねをしたり、神・儒・仏の道は、たとえそれらが魂を守護するものであっても、それに深く入り込んだりすると、かえって家を亡ぼすことになるのである。ましてそのほかの遊芸はいうまでもない。ほんの少しの間も忘れてならないのは家業と心得るべきである。』
出典:『町人考見録 原本現代語訳』教育社(「跋」より)
ことわざの「川だちは河にて果てる」のように、商売に慣れて慢心しているとその商売で身を亡ぼすことを戒めています。この『町人考見録 』は、投機的な大名貸しで回収できなくなった等、商家が次々と潰れていく様子がたくさん描かれた秘伝書です。当時の商家は「親苦・子楽・孫乞食」 「売り家と唐様で書く三代目」と言われるように、様々な誘惑から家を亡ぼす事が非常に多くありました。
… この書でも強調されているのは、「家業をおろそかにしない」という点です。三井越後屋と言えば、斬新な商法(知恵や才覚)が目に付きますが、商家としての戒めは違うところにあったようです。
【江戸時代・中期~後期】武士 vs 商人の主導権争い
江戸時代の幕藩体制は、農民からの年貢米を基盤とする自然経済的な「米遣(こめづかい)経済」を理想としていました。この武家社会の経済観は、前述の「朱子学」とともに江戸幕府の根幹を支えるものです。
しかし時代が進むにつれ、各産業の発展とともに、商品・貨幣経済的な「銭遣(ぜにつかい)経済」も急速に台頭します。江戸時代後期には、米遣経済を完全にしのぐほどになりました。この変化は、徳川幕府の理想に反するものであり、武家社会の基盤を揺るがす重大な問題となります。言いかえれば、「商人」は武士階級にとっての明確な脅威となったのです。
…この視点から江戸時代約260年の歴史を振り返ると、武士と商人の間で経済的な主導権を巡る争いが繰り返されてきたことが浮かび上がります。
- 江戸時代の「三大改革」と前の時代
- 【前期】江戸幕府の開府~
- 元禄時代(第5代将軍・徳川綱吉)
- 【中期】享保の改革(第8代将軍・徳川吉宗)~
- 田沼時代(老中・田沼意次)
- 【後期1】寛政の改革(老中・松平定信)~
- 大御所, 化政(文化文政)時代(第11代将軍・徳川家斉)
- 【後期2】天保の改革(老中・水野忠邦)~
- ペリー来航から幕末へ
江戸時代の「三大改革」の前には、商人が飛躍的に経済力を伸ばした時期がありました。しかし、これは為政者にとって、武家社会の基盤を揺るがす重大な問題となります。そのため、商人から経済の主導権を奪い返すための改革や、厳しい締め付けが繰り返されたのです。
これまでの歴史では、貴族や武士が中心的な役割を担ってきましたが、江戸時代は町人(商人)が初めて前面に登場した時代でもありました。町人たちは経済力だけでなく、思想や芸術など文化の推進力としても重要な存在となっていきます。
… 一方で、朱子学に基づく「貴穀賤金(きこくせんきん)」の思想により、商人は体制維持のため叩かれ続けました。それでも、三大改革という冬の時代を通じて悪戦苦闘しながらも、商人たちはその力を着実に蓄えていったのです。
商人子弟の出発点… 「寺子屋」「読み書きそろばん」「往来物」
江戸時代の教育といえば、最初に「寺子屋」が思い浮かぶ方が多いでしょう。寺子屋は江戸時代の庶民の子供たちが、初歩的な「読み書きそろばん」から学べる場となりました。子供だけの塾というイメージもありますが、そこまで明確な年齢や性別の線引きは無かったようです。一部では学びたい成人向けの社交場としての機能もあったとか。
室町・鎌倉時代には、文字通り町のお寺が活用されていました。寺子屋が本格的に普及するのは、江戸時代後期ぐらいからとなります。
教師役をつとめる人々は村の役人や町人などで、「手習い師匠」とも呼ばれました。寺子屋の普及にともない、その手習い師匠は町や村に2~3人はいたと言われています。寺子屋では初歩的な「読み書きそろばん」として、筆を使った文字の学習や、そろばんを使った算術を学びました。
◇ 倉本長治の筆:商売のいろはについて(9/16)
『昔の商人は幼い頃、文字を覚え、意味を教わり、習字を行い、商売のいろはを教わりしながら、やがて、受取りを書くようになったり、手紙も書けるように育った。
読み書き算盤というが、文字の学習とは別に、店では毎晩、先輩から「二一天作の五」を算盤を習うのが常であった。いずれも商人にとって必要な日常の術であったからだ。これが商人としての出発点だった。』
出典:雑誌『商業界』1975年3月臨時増刊号(エッセイ「ゼミナール商人道」より)/ 資料⑥『石田梅岩ノート』商業界(「倹約こそ万の根源」の一部より)
寺子屋で主に使われたテキストのひとつに、「往来物(おうらいもの)」があります。平安時代末の藤原明衡(前述の『新猿楽記』著者)が始まりといわれ、手紙のやり取りを通じて文字や語彙を学ぶ形式となっています。一般的に使われた往来物として、先ず『庭訓往来(ていきんおうらい)』が挙げられます。
江戸時代の商人の子弟は、基礎的な『実語教(じつごきょう)』などから始まり、商いに特化した往来物である『商売往来(しょうばいおうらい)』を通じて商売のいろはを学びました。
『実語教』の著者は不明ですが、「往来物」と同じく平安時代末の成立と言われ、鎌倉時代には普及していたようです。5文字で構成される漢字が続き、本文は「山高きが故に貴からず、樹有るを以て貴しとす…」という、味のある有名なフレーズから始まります。(右に倉本長治による意訳文を並べました)
◇ 倉本長治の筆:実語教について(10/ 16)
『山高故不貴 山は高いからいいのではない
以有樹為貴 樹木があってネウチがある
人肥故不貴 人は肥えっちょがエライわけでない
以有智為貴 知恵のあるのが偉いのだ
富是一生財 お金持ちなら生涯の宝持ち
身滅即共滅 死んだら苦も楽もない
智是万代財 智識は後の世までの宝
命終即随行 死んだ後までそれは伝わる
玉不磨無光 宝石だって磨かにゃ光らぬ
無光為石瓦 光らないのを石や瓦という
人不学無智 人は勉強しなけりゃ智識がない
無智為愚人 智識のないのを馬鹿という』
出典:雑誌『商業界』1968年1月号(エッセイ「商賣往来」より)
… このような流れで「実語教」によって、全480字の漢字が学べる仕組みになっています。雰囲気で伝わりそうですが、儒学的な価値観も同時にすり込まれるのも重要ポイントでしょう。(全文は Wikipedia や青空文庫などでご確認いただけます)
次に『商売往来』ですが、こちらは堀流水軒(ほりりゅうすいけん)によって、江戸時代前期の1694年(元禄7年)に刊行されました。堀流水軒は上方の書家で、商業に必要な語彙や心得を独自に『商売往来』としてまとめた人物です。
実はこの『商売往来』は発売当初から数十年は全然売れなかったそうで、徐々にその有用性が評価され、江戸時代後期には爆発的に売れた往来本となります。
こちらも冒頭部分を見てみましょう。
◇ 倉本長治の筆:商売往来について(11/16)
『凡商売持扱文字員(およそあきないもちあつかうもんじいん)/ この本は商売上
数取遣之日記証文(ずうとりやりのにつきしようもん)/ 日常取扱う記帳
注文請取質入算用(ちうもんうけとりしちいれさいよう)/ 上に必要な文字を
帳目録仕切之覚也(ちょうもくろくしきりのおぼえなり)/ 覚えるためのものである。』
出典:雑誌『商業界』1968年1月号(エッセイ「商賣往来」より)
この冒頭から始まり、商業活動に必要な語彙が見事なほどリズミカルに並べられています。実際に素読のように声に出して読んでみると、そのリズムの出来に感心するほどです。
… 実はこの冒頭部分も、「商売に関する文字」が並んでいるのにお気づきでしょうか。このような感じで、商人の子弟は商取引や商品などの一般用語を学びました。(2024年放送のNHKBSドラマ『あきない世傳 金と銀』でも、上方商人にとっての必読書として描かれています。)
この『商売往来』は語彙のみの、ただの字習いの学習テキストではありません。最後の段では、商人としての大事な心構えも記しています。
◇ 倉本長治の筆:商売往来について(12/16)
『そもそも商売の家に生きる輩は幼稚の時より、先づ手跡、算術の執行肝要たるべきもの也。然して歌、連歌、俳諧、立華、蹴球、茶の湯、謡、舞、鼓、太鼓、笛、琵琶、稽古の儀は、家業に余力あって折々心懸、相嗜む可し。
或いは碁、将棋、双六、小唄、三味線、酒宴遊興に長じ、或いは分限に応ぜず衣服を飾り、家宅泉水築山樹木草花を楽しむのみなれば金銭を費やすこと無益の至り、衰弱破滅の基本か。
惣じて見世棚 [店舗] 綺麗、挨拶、啓答、饗応、柔和にすべし。大いに高利を貪り、人の目を掠めて天罪を蒙る者は重ねて問い来る人、稀なる可し。天道の働き恐るるの輩は、終いに富貴繁昌子孫栄え、花の端相なり。倍利潤、疑い無し。』
出典:雑誌『商業界』1968年1月号(エッセイ「商賣往来」より)
各段で商人の稽古, 分限, 応対が記されていますが、最後の段で家業にはげみ奢らずに正直に商売しましょうと具体的に述べていますね。そうすれば、なんと「倍以上の利益も疑いない」とまで言っています。笑
その後は、評判による評判が広がりを見せ、ゆるやかにベストセラーになった『商売往来』は、著者・堀流水軒の手を離れます。町人や商人の間で需要が高まり、増補や絵入りなどのカスタム版が相次いで刊行されたのです。
こうして『商売往来』は、『庭訓往来』に代わる代表的な往来本となりました。
本を読む商人と売る商人… 「教訓書」「浮世草子」「洒落本, 黄表紙」
第8代将軍・徳川吉宗の「享保の改革」は、江戸の社会と経済の雰囲気を一変させました。それまでの「元禄バブル」と呼ばれる好景気が過ぎ去り、幕府財政は深刻な破綻の危機に直面してたのです。享保の改革では、財政の立て直しを図るため、倹約令や支出の大幅な引き締めを断行しました。その結果、江戸は長い低成長時代へと移行します。
前述の御用商人(紀文や奈良茂)のような古い豪商は衰退しましたが、一方では三井や鴻池のような新しい商人たちが頭角を現す契機ともなりました。
「商人」の存在が問われた享保期でしたが、商人自らその存在を見つめ直す機運が高まります。一般的にはあまり知られていませんが、長崎の西川如見(にしかわじょけん)が記した『町人袋(ちょうにんぶくろ)』は、いちはやく商人の本分を説いた名著とされています。
◇ 倉本長治の筆:町人袋について(13/16)
『商人の社会的地位を論じた西川如見の「町人袋」が一七一九年に刊行されていることは特筆しなければいけない。』
『「町人袋」[ 正しくは町人嚢という。これは町人心得書というより商人の自覚のために警鐘をならした名著といってよい。(中略)] の著者は長崎生まれの天文学者西川如見 [一六四八 – 一七二四] で、高名な商人でもあった。
(中略)商人の書いた商人の社会的存在の意義などについては、当時としては胸のすく思いがする内容のものだった。』
出典:資料⑨『経営の本今昔物語(未発表エッセイ-「倉本長治著作選集 第12巻」より)』商業界
「袋」は、そばに置いて必要に応じて取り出す意味合いとなります。本書はタイトルの通り、町人のための知恵が集められ、袋に詰められたものです。西川如件はこの書で「本分をわきまえろ」と、商人の自覚をうながしました。
◆ 日に三読するに値するとされた書
『町人に生まれて其みちを楽しまんと思はゞ、まづ町人の品位をわきまへ、町人の町人たる理を知てのち、其心を正し、其身をおさむべし。
(中略)分際に安じ、牛は牛づれを楽みとせば、一生の楽み尽る事なかるべし。』
『それ商人のみちとは、金銀をもつて物を買とり、利倍をかけてうれる事をのみいふにあらず。商の字の心は商量といひて、物の多少好悪をつもりはかりて、用をなし利徳を得るは、みな是れ商の類なり。
(中略)すべて物の多少高下を量り、損益を考へて高利をとる事なく、有所の物を以てなき所の物にかへ、我国の物を持行きて人の国の物にかへて、天下の財物を通じ国家の用を達するを、真の商人といふなり。』
出典:『日本思想大系59 近世町人思想』岩波書店(「町人嚢 巻一」より)
この書は享保時代から「商人必読の書」となり、幕末まで長く版を重ねました。上記の引用は、その名著の冒頭部分からの一節です。当時、商人たちは享保の改革による厳しい締め付けの中で活動を強いられていました。この書は、特権商人のような派手な商いや浪費を戒め、商人としての本分を忠実に果たすことの重要性を説いています。
また、この頃には『商人夜話草(しょうにんやわぐさ)』や『商人生業鑑(あきんどすぎわいかがみ)』などの優れた商人向けの心得書が数多く出版された時代でもあります。これらの書物は、商人としての心構えや実務的な知恵を伝える重要な指針となりました。
2025年NHK大河ドラマは、『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』が予定されています。主人公は蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう:つたじゅう)で、現代風に言うと出版プロデューサーとして名を残した人物です。
江戸時代前期はまだ文化の中心が西寄りで、元禄文化と言われる上方の文芸(前述の井原西鶴らを代表とする)が先ず栄えました。蔦屋重三郎が活躍した時代は、江戸時代中期にあたる「享保の改革」後のきびしい統制下です。この頃になると、江戸の繁栄にともない、文化の中心は江戸に移りつつありました。
そんな時代下で蔦屋重三郎は、町人生活のさまざまな姿を版元としてプロデュースします。戯作者や浮世絵師を兼ねた、天才マルチクリエーターの山東京伝(さんとうきょうでん)や、浮世絵の歌麿や写楽も見出しています。その後、「寛政の改革」により、面白おかしく書いた本(黄表紙, 洒落本)は発禁を受け、見せしめ的な厳しい処罰を受けることになりました。
… 蔦屋重三郎が手掛けた書物は、大衆向けの読み物であるため、当時の町人たちのお金に対する感覚や価値観に触れることができます。例えば『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』など、さまざまな作品で楽しめます。
※この蔦屋重三郎や前述の三井越後屋のような、江戸時代の「知恵と才覚」について興味のある方は、汐留にある「アドミュージアム東京(公式HP)」さんの展示や関連書籍(「江戸の広告作法/えどばたいじんぐ」や「「広告は語る」アドミュージアム東京収蔵作品集」がおすすめです。日本の広告プロモーション史が一望できる貴重な展示内容となっています。(一方で「正直」「勤勉」「質素・倹約」といった地味な話は、引き続きこのブログでお楽しみくださいませ)
石門心学のルーツと発展…「禅宗(曹洞宗, 黄檗宗)」「教化運動と道話」
江戸時代中期(享保の改革)に、石田梅岩が「日本の商人道」を確立しました。著書の『都鄙問答』において、「商人の商売の儲けは侍の俸禄と同じこと」と喝破したあの歴史的なシーンですね。
その思考のルーツをたどると、江戸時代初期の禅僧であった「鈴木正三(すずきしょうさん)」に辿り着きます。
◇ 倉本長治の筆:鈴木正三について(14/16)
『商店経営の専門家である私が、何故、こんなことに興味を持つのかというと、鈴木正三の本の中に石田梅岩が普及した商人道徳のもっと元の源泉のようなものがあったに相違ないと見て取ったからである。
商人道の原点が京都の呉服屋黒柳の番頭だった勘平(後の石田梅岩)にあるかと見た私は、その梅岩の秘蔵弟子の堵庵が「心の目の闇を助けて、安きに導かんとて、盲安杖というのだ」と彼等より百年以上も以前の本を推薦しているのを知って、それがどんな内容かを現代の商人諸君にもお知らせするのがよい、---そんな事も私の責任の一つなのだと思ったからである。』
出典:資料⑥『石田梅岩ノート』商業界(「大河を遡る」より)
倉本長治が上記で述べた個所を、少々補足します。石田梅岩の没後に高弟の手島堵庵(てじまとあん)が中心となり、その思想を「石門心学(せきもんしんがく)」として発展させました。その手島堵庵が江戸初期の『盲安杖(もうあんじょう)』という本に序文や注釈を付けテキストとして使用していたのです。
この『盲安杖』の作者が、前述の鈴木正三となります。鈴木正三は仮名草子の文学作者として知られていますが、実はいくつかの戦功を持つ武士から出家した人物です。
手島堵庵が『盲安杖』に序文や注釈を付けたのは、師である石田梅岩の影響と言われています。というのも、石田梅岩に影響を与えた唯一の師・小栗了雲は、鈴木正三の流れを汲む禅宗の人でありました。(同じ禅宗でも、鈴木正三は曹洞宗、小栗了雲は黄檗宗の違いはあるようです)
… ここで整理すると、鈴木正三 → 小栗了雲 → 石田梅岩 → 手島堵庵と続いた思想の系譜となります。江戸時代初期から後期にかけて思想を繋ぐキーワードとして、「禅宗」「鈴木正三」『盲安杖』が浮かび上がってきます。
『盲安杖』は鈴木正三が三河武士から出家する前の著作で、1619年(元和5年)に刊行されました。本書のタイトルは、「衆盲を導く杖(仏法)」という意味あいです。内容は鈴木正三の信条を、下記の10項目にまとめたものとなります。
◆ 大衆向けに書かれた鈴木正三の基本思想
『一、生死を知って楽しみ有ること
一、己を顧みて己を知るべきこと
一、物毎に他の心に至るべきこと
一、信ありて忠孝を勤むべきこと
一、分限を見分けてその性々を知るべきこと
一、住まる所を離れて徳有ること
一、己を忘れて己を守るべきこと
一、立ち上がりて独慎べきこと
一、心を滅ぼして心を育つべきこと
一、小利を捨てて大利に至るべきこと』
出典:『鈴木正三著作集Ⅰ』中公クラシックス(「盲安杖」より)
この10項目は、仏法の立場から人としての生き方を述べたものとなります。最初の著作なので、鈴木正三思想の入門編という位置づけです。難解な教典を用いず(当時としては異例)に、大衆向けに噛みくだかれた表現で書かれました。
他に鈴木正三の思想として、「世法即仏法(せほうそくぶっぽう)」という概念が知られています。これは「どんな立場の人でも、心を込めて働くことがそのまま仏道の修行になる」という意味合いで伝えられています。
一般的には「世法即仏法」は仏教的な職業倫理として、捉えられているかと思います。しかし『盲安杖』を読むと、鈴木正三は日常生活すべてが仏道につながる… と考えていたと分かります。
これまで見てきた日常の心構え『盲安杖』に続き、士農工商それぞれの生き方については『四民日用(しみんにちよう)』で詳述されています。この書は『万民徳用(ばんみんとくよう)』の一部であり、他の二部とともに合作された書物です。
その中の『商人日用(しょうにんにちよう)』では、商人についての具体的な職業観が、以下のように述べられています。
◆ 鈴木正三の商業観
『売買をする人は、先ず利益を益すような心遣いについて修行すべきである。その心遣いというのは他でもない。身体と生命を天道に投げ出して、一筋に正直の道を学ぶことである。
正直の人には天の恵みも深く、仏や神の加護もあって、災難を除き、自然に福を増し、諸々の人々からの親愛や敬意も深くなり、万事が思うように運ぶはずである。
私欲に耽り、自分と他人を区別し、他者を蹴落として [ 自分だけの ] 儲けを思う人には天道の祟りが有って禍を増し、万人に憎まれ、人々からの親愛や敬意も無くなり、万事が思うようにいかなくなる。』
出典:『鈴木正三著作集Ⅰ』中公クラシックス(「万民徳用」より)
中段と下段で、「正直の人」と「私欲に耽る人」が対比されています。上記の引用を見ると、後に「正直」「勤勉」「質素・倹約」と述べた、石田梅岩の思想の源流まで遡れた気分になれるかと思います。あと興味深い事に、この書は全体的に『都鄙問答』と同じく問答形式で書かれている、と付け加えておきましょう。
(石田梅岩は禅宗の影響もうけましたが、当人は著書の中で自らを「儒者」と名乗っています。よって、石田梅岩の思想の中心は「儒学」で良いと思います。)
石田梅岩が亡くなった後は、優れた弟子たち(手島堵庵ら)による教化運動で「石門心学」は全国的な広がりを見せました。
世代的には孫弟子にあたるのが、中沢道二(なかざわどうに), 柴田鳩翁(しばたきゅうおう)らです。この頃には対象も、商人から武士や町民まで広がりました。小難しい石田梅岩の教えを噛みくだき、「道歌」や「道話」によって伝える工夫も良かったようです。
◆ 分かりやすさを追求した心学道話
『聖人の道も、チンプンカンプンでは、女中や子ども衆の耳に通ぜぬ。心学道話は、識者のためにまふけました事ではござりませぬ。
たゞ家業におはれて、暇のない御百姓や町人衆へ、聖人の道ある事をおしらせ申たいと、先師の志でござりますゆゑ、随分詞をひらたうして、譬をとり、あるひはおとし話をいたして、理に近い事は、神道でも仏道でも、何でもかでも、取こんでおはなし申ます。
かならず軽口ばなしのやうなと、御笑ひ下されな。これは本意ではござらねども、たゞ通じ安いやうに申すのでござります。』
出典:『日本思想大系42 石門心學』岩波書店(「鳩翁道話 壱之上」より)
その後「石門心学」は、江戸時代中期の「寛政の改革」において、驚くべきことに施策の一つとして採用されます。当時の江戸市中は困窮した無宿者が増加し、深刻な社会問題となっていました。そこで幕府は、厚生施設「人足寄場(にんそくよせば)」を設置して、無宿者を収容する政策を実施したのです。
「人足寄場」では、無宿に職業技術を教え、休業日には心学者が訪れ講和を聞かせました。しかし、「石門心学」は一般大衆まで広がりを見せましたが、明治時代に入ると次第に衰退していきました。
◇ 倉本長治の筆:石門心学について(15/16)
『商人道を説いた梅岩だったが、それが人の道と同じモノだとするところから、弟子の時代、孫弟子の時代になると、商人以外の全国の農民や士分の者までもが石田梅岩の教えを尊重するようになるのだった。
(中略)この心学運動は次第に商人のためより一般庶民のためのものとして、二宮尊徳の報徳社の運動と共に永く明治時代まで続いたものである。つまり商人の道は「庶民の道として水増しされ、希釈され一般化され普遍化し常識化されて」遂にその本質が大衆常識の中に埋没し見失われたのだといってよかろう。』
出典:雑誌『商業界』1975年3月臨時増刊号(エッセイ「ゼミナール商人道」より)/ 資料⑥『石田梅岩ノート』商業界(「倹約こそ万の根源」の一部より)
… 以上が、鈴木正三を源流として、石田威梅岩の「石門心学」へと続く思想の潮流です。現在、その教えは広く知られていませんが、「日本の商道徳」の中で石田梅岩の思想は今も息づいています。
藩域をとび越えた近江商人… 「のこぎり商法(産物廻し)」「始末してきばる」
江戸時代の優れた商人は、多くの悪口も浴びてきました。前述の「近江泥棒、伊勢乞食」の、近江商人は全国津々浦々に進出した商人です。その手法は「のこぎり商法(産物廻し)」と言われ、上方の産物を各地に持ち込み、現地の産物を仕入れて帰る様子から「近江泥棒」と言われてしまったようですね。
近江商人は主に琵琶湖の東側(八幡, 日野, 五箇荘)地域から出た商人をまとめた呼称です。八幡商人は徳川家康の厚遇を受け、江戸の開府後に開業を推奨されました。
現在も日本橋の周辺は、近江商人ゆかりの髙島屋(百貨店)やふとんの西川(西川株式会社)などの大企業、かつては白木屋(百貨店)があった他に柳屋ビルや滋賀県のアンテナショップなどが並んでいます。
商人として名高い「近江商人」ですが、倉本長治時代の雑誌『商業界』では、そこまで多く取り上げられませんでした。その後に倉本長治が亡くなり、2代目主幹の倉本初夫の代で近江商人にスポットライトが向けられます。
商業界の協力による映画『てんびんの詩』が1984年に制作され、1988年に劇場公開されています。この映画は近江商人を題材にした「商人道」の研修教材といった内容で、好評により3部まで制作されました。
近江商人と言えば、「三方よし(売手よし、買手よし、世間よし)」がよく知られています。実はこの言葉は、江戸時代の言葉ではなく、ごく最近になって使われるようになったものです。「三方よし」は近江商人研究者・小倉栄一郎の1988年の大ヒット著書『近江商人の経営』内の P.54で初めて使われ、1991年滋賀県で開催された「世界AKINDOフォーラム」の開催で、さらに大きな注目が集まりました。
… こうして共通理念として定着した「三方よし」ですが、その根拠は明治時代の『「近江商人(国会DC)』に書かれた、中村治兵衛の家訓の一節からとされていました。その後、1997年に原史料(書置)が発見されています。書置は24箇条からなるもので、長さは3メートルにもなるそうです。
こちらに「三方よし」の言葉はありませんが、次の一節が近江商人の代表的な理念と考えられています。(書き下し文が少々難解なので、生成AIによる現代語訳も併記します)
◆ 三方よしの原典
『たとへ他国へ商内に参候ても、この商内物この国の人一切の人々皆々心よく着申され候様にと、自分の事に思わず、皆人よく様にとおもひ、高利望み申さず、とかく天道のめぐみ次第と、只そのゆくさきの人を大切におもふべく候』
出典:『情報誌「三方よし」』三方よし研究所(第9号より)
現代語訳『たとえ他の国へ商売に行っても、この商売の品物が、この国の人々全員が気持ちよく買ってくれるようにと、自分のことのように考え、みんなが喜んでくれるようにと願い、高い利益を求めず、ただ天の恵みに感謝し、取引先の人のことを大切にするべきです。』
出典:生成AI「Google Gemini」より
長らく発見が待たれた原典のこの一節をもって、「売手よし、買手よし、世間よし」の根拠とされています。都合よく取ってつけたものでは無く、明治時代の書物から原典を発見するまでの過程がまた良かったりしますね。
この「三方よし」が広まる前は、近江商人家の家訓『金持商人一枚起請文(かねもちしょうにんいちまいきしょうもん)』が高い評価でよく知られていました。日野地方の中井源左衛門が1805年(文化2年)に、浄土宗の開祖である法然の『一枚起請文』をヒントに、彼の商い観を記した家訓となります。
◆近江商人の叡智が凝縮された家訓
『もろもろの人々沙汰しもうさるるハ、金溜る人を運のある、我は運なき杯と申ハ、愚にして大なる誤なり。運と申事は候はず。金持にならんと思わば、酒宴遊興奢を禁じ、長寿を心掛、始末第一に、商売を励むより外に子細は候はず。此外に貪慾を思はば先祖の憐みにはづれ、天理にもれ候べし。
始末と吝きの違あり。無智の輩は同事とも思うべきか。吝光は消えうせぬ。始末の光明満ぬれば、十万億土を照すべし。かく心得て行ひなせる身には、五万十万の金出来るハ疑ひなし。
但運と申事の候て、国の長者とも呼るる事は一代にては成かたし。二代三代もつづいて善人の生まれ出る也。それを折候には、陰徳善事をなさんより全別儀候はず。後の子孫の奢を防がんため愚老の所在を書記畢。』
出典:『情報誌「三方よし」』三方よし研究所(第2号より)
現代語訳『世間の人々が言うことには、「金持ちになる人は運が良いからで、自分は運がないからだ」と言うが、それは愚かで大きな間違いである。「運」などというものは存在しない。金持ちになろうと思うならば、酒宴や遊興などの贅沢を慎み、長生きを心がけ、倹約を第一として商売に励むより他に方法はない。これ以外に欲深いことを考えれば、先祖の恩恵に背き、天の道理にも背くことになる。
倹約とケチには違いがある。無知な人々は、これらを同じものだと思うかもしれないが、ケチの光はすぐに消えてしまう。倹約の光明が満ち溢れれば、この世の極楽浄土を照らすであろう。このように心得て実行するならば、莫大な財を築くことは間違いない。
ただし、「運」というものがあって、国を代表するような大金持ちと呼ばれるようになるのは、一代では難しい。二代、三代と続いて善人が生まれて初めて、そのような家になるのである。そのためには、人知れず善い行いをすることより他に方法はない。後の子孫の奢りを防ぐために、老いた私がここに書き記した。』
出典:生成AI「Google Gemini」より
前述したように、倉本長治の時代には、雑誌『商業界』で近江商人が取り上げられる機会は多くありませんでした。しかし、没後になって「てんびんの詩」や「三方よし」といった言葉が広まり、近江商人は「日本の商道徳」を語る上で欠かせない存在として再評価されるようになっています。
その意義を踏まえ、今回は特別に紙幅を設けて、詳しく記載することとしました。
幕末の農政家であり経世家…「報徳仕法」「積小為大」
最後にちょっと意外な?人物を紹介します。江戸時代後期から末期に活躍した、農政家の二宮尊徳(にのみやそんとく)です。誰もが聞いたことのあるような偉人ですが、薪を背負いながら歩き読書をしている金次郎像という印象の方も多いでしょう。しかしながら、何をした人物かはあまり知られていない印象です。
二宮尊徳は数々の農村を救済した農政家で、その手法は「報徳仕法(ほうとくしほう)」と呼ばれました。仕法の基本は理念である「至誠」と実践項目である「勤労, 分度, 推譲」から成り立っています。また、幼少期の経験から、小さなことを積み重ねが大きな成果に繋がる「積小為大(せきしょういだい)」という言葉も残しています。
二宮尊徳の思想は、農業だけではなく経済、そして人生観に通じる広がりを持っていたのです。
… 実は倉本長治も二宮尊徳は農業だけという印象を持っていましたが、1956年1月号で盟友・岡田徹のエッセイに衝撃を受けたと後に述べています。記事が書かれた前年10月に、日本橋の三越本店にて二宮尊徳の百年忌展が開催されました。
その百年忌がきっかけになったようで、岡田徹は弟子の書物『二宮翁夜話(にのみやおうやわ)』から、商いに関する多くの名言を紹介しています。
◆ 二宮尊徳の名言の数々
・遠きを謀るものは富み、近きを謀るものは貧す(四七)
・少く取りても不足なきものなり(九七)
・倹約を先んぜざれば用をなさず。後る時は無益なり(一〇三)
・真の利とは、尤も利の少なきところにあるものなり(一〇五)
・千円の資本にて千円の商法をなすは危し(一〇七)
・山林に四角なる木なし(一一五)
・貧となり富となる、偶然にあらず(一二一)
・刃先を我方にして先方に向けざるは道徳なり(一四三)
・白米、山に登る(一五一)
・家に権量なく法度なき、よく久しきを保たんや(二一三)
・借も千円、貸も千円(続 一四)
・肥をすれば必ずなる(続 一五)
・惜しいかな(続 一八)
・推譲の法は我が教え第一の法なり(一四六)
・今の木の実も大木とならん(一六三)
出典:雑誌『商業界』1956年1月号(岡田徹「今の木の実、又、大木となる疑いなし」より)
※()内の数字は「二宮翁夜話」の該当番号として私が追記しました
この記事で衝撃をうけた倉本長治は「農業関係のぢゝむさい勤労一本槍の老爺と思い込んで居た」と翌月の編集後記で、正直に述べています。笑 「これまで余り注意をしなかった」とも言っていますが、雑誌『商業界』で黎明期のはやい時期に触れられた「日本の商人道」に関する記事として、上記の岡田徹のエッセイは要注目といえます。
同年には、前述の「商店と聖典」(1956年7月~1957年3月)が連載されています。この1月のエッセイが何かのきっかけになったかもしれません。改めて二宮尊徳に注意するようになって、1959年8月からの連載「先覚者に学ぶ」では2ページに渡り言及されています。その後の倉本長治は「孔子」や「石田梅岩」などは多く述べていましたが、二宮尊徳については時々触れる程度だったかと思います。
そして、倉本長治が晩年に差し掛かる頃のエッセイ(1970年9月号)で、改めて二宮尊徳について多く触れられました。
◇ 倉本長治の筆:二宮尊徳について(16/16)
『「神儒仏の書、数万巻あり、それを研究するも、深山に入り座禅するも、その道を上り極まる時は、世を救い、世を益するの外に道あるべからず、若し有りといへば邪道なるべし。正直は必ず世を益する一つなり」
という二宮尊徳(金次郎)の残した言葉に私もすっかり感心しているのである。全く同感、長年職業に関する「何かの信念」を求めて書物を読み取るということを続けて来た私にもそうとしか思えないからである。』
出典:雑誌「商業界」1970年9月号(エッセイ「尊徳に聞く」より)
1959年8月の連載「先覚者に学ぶ」でも、引用された箇所となります。前述の『二宮翁夜話』からですが、さすが昭和をけん引した商業指導者の目線です。ここを引用する倉本長治のアンテナ感度に、私は深く強く感銘を受けました。
… あまりに良い箇所を引用するので、現代語訳も書き添えておきたくなります。
◆ 雑誌「商業界」と一致した正道の理念
『神儒仏の書が数万巻ある。それを研究するのも、深山に入って坐禅をするのも、その道を上り極めるときは、世を救い、世に利益をもたらすほかには道はあるはずがない。もしあるとすれば邪道であろう。正直は必ず世に利益をもたらすもの一つである。』
出典:『二宮翁夜話』中公クラシックス(巻の四 一四九より)
繰り返しになりますが、雑誌『商業界』の誌上において、1956年1月に盟友・岡田徹の二宮尊徳に関するエッセイが掲載されました。その後の同年7月には、9人の聖人(クリスト, パウロ, 孔子, 孟子, 釈迦, 孫子, ソクラテス, 日蓮, 親鸞)を順に挙げた「商店と聖典」が連載されています。(書籍は①『商人と人生』商業界(1957年, 国会図書館DC))
… 倉本長治が拾い上げた二宮尊徳のこの言葉は、雑誌『商業界』の活動理念そのものが見事に言い表されていたと思います。これが偶然だったのか、それとも必然だったのか。その答えを知る術はありませんが、深く考えさせられる部分となります。
おわりに
2020年4月の「株式会社商業界」破産のニュースから、そろそろ5年を迎えようとしています。この出来事こそ、私が「日本の商人道」の歴史や変遷をまとめて整理しようと思った、大きなキッカケです。このままでは、もう誰も「商道徳」なんて口にしなくなるんじゃないかと、背筋が冷たく感じた事を覚えています。その後は、個人的なライフワークと捉え、こつこつこつこつと資料や素材集めに奔走する日々を送りました。
… さぁいよいよだ!と着手してからは、約8カ月ほどでしょうか。この度ようやく、記事公開に至った次第です。
昭和時代の倉本長治は「店は客のためにある」と言い、江戸時代の石田梅岩は「先も立ち、われも立つ」という言葉を残しています。そして両人に連なる商人たちの思想を深掘りする中で、私自身も多くの気づきを得ることができました。(資料を読みすすめる中で、まるで書物の先の先人と話しているような錯覚に陥ることも多々ありました。)特に、時代を超えて大事にされた「正直」「勤勉」「質素・倹約」といった基礎的な価値観も含め、今後も広く伝え続けたいと思います。
こんなに長い記事を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。皆様がこの記事を通じて、何か一つでも心に残るものを見つけられたなら、私としてこの上ない喜びとなります。
主な参考書籍など
引用の書籍以外の、参考書籍の一覧です。(私の解釈に間違いや誤りがあるかと存じます。その場合はどうぞご容赦くださいませ。)
- 主な参考書籍
- 『日本の近世 5 商人の活動』中央公論社
- 『あきんど再発見 (1)(2)(3) 』有斐閣新書
- 『商売往来の世界 日本型「商人」の原像をさぐる』NHKブックス
- 『商人(あきんど)の知恵袋』PHP文庫
- 『貨幣博物館 常設展示図録』日本銀行金融研究所
- 『総合案内 江戸東京博物館』江戸東京歴史財団
- 『資料館ノート(1号~150号)』江東区深川江戸資料館
- 『天下の台所・大坂 図説大坂』 学習研究社
- 『経済小説の原点「日本永代蔵」西鶴を楽しむ ② 』清文堂
- 『史料が語る 三井のあゆみ 越後屋から三井財閥』三井文庫
- 『江戸の広告作法 えどばたいじんぐ』吉田秀雄記念事業財団
- 『湯島の地に聖堂あり -江戸・東京の学び舎と文京-』文教ふるさと歴史館
- 『心学開講280年記念 今よみがえる石田梅岩の教え』亀岡市文化資料館
- 『鈴木正三 七部書 ダイジェスト版』豊田市教育委員会
- 『近江商人博物館 常設展示案内』東近江市近江商人博物館
- 『近江商人を育てた寺子屋』東近江市近江商人博物館
- 『新 もういちど読む山川日本史』山川出版社