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売り手「日本の商道徳」カテゴリーにおいて、明治・大正時代の渋沢栄一についてはひと段落がつきました。次はいよいよ、江戸時代の石田梅岩(いしだばいがん)に着手します。
石田梅岩といえば、その思想を著した『都鄙問答(とひもんどう)』が知られています。この「都鄙問答」はちょっと難解な書物ですが、「日本の商人道」に及ぼした影響はかなり大きいのです!
先ずは人物『石田梅岩(いしだばいがん)』について
一般的に石田梅岩について語られる際、その思想や商人道についてが多いでしょう。とはいえ、そこまで知名度も高く無いので、まぁ「江戸時代の知る人ぞ知る偉人」といった具合だと思います。
先ずは、石田梅岩の人物像に迫ってみましょう。
石田梅岩の人物像と『石門心学(せきもんしんがく)』
石田梅岩は、江戸時代中期に活躍した人物です。現在では高校の倫理科目にて、その思想が扱われているそうですね。一人のファンとして嬉しい限りです!
貞享2年(1685年)、石田梅岩は丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市東別院町)に生まれました。名は興長, 通称は勘平で、梅岩は号にあたります。
農家である父・石田権右衛門、母・たねとの間で、梅岩は二男一女の次男として育ちます。
ちょうどこの時は第5代将軍・徳川綱吉が世を治め、「元禄文化」としても知られています。上方の町人文化が花開いたと同時に、今で言うところのバブル経済に陥っていたようです。
梅岩は11歳で京都の呉服屋に奉公にでますが、15歳で勤めを辞して家に戻っています。一説によると、呉服屋の経営状態がかなり悪化していたため、父が呼び戻したとか。… その後23歳時に再び京都の商家(黒柳家)へ奉公に出たのですが、当時としては異例の高齢です。この2度目の奉公は、43歳まで勤め上げました。
この時期、梅岩は自らの思想を深める時期になりました。商人として奉公しながら独自に「人の人たる道(後述)」を思索し続けます。梅岩は誰を師とも決めずに、様々な学者(儒者)の講義を受けても、どこか納得がいかなく長い間悶々としていたそう。
… しかしある時、隠遁の学者である小栗了雲(おぐりりょううん)に出会い、梅岩の「道」が開けます。二度の悟り体験を経て、約20年間務めた黒柳家を辞した後、45歳の梅岩は京都車屋町(現在の京都市中京区塗師屋町)にて、借家を講席として開講しました。
梅岩の講席の特徴は「聴講無料, 出入り自由, 女性もどうぞ」と、男女も問わずあらゆる一般民衆(町人)に呼びかけた点です。神道, 仏教, そして儒教などを取り入れ独自に体系化された講席では、前述の「人の人たる道」を中心に、日常生活の道徳的規範も説きました。
この学問は、「石田梅岩の心学」を意味する『石門心学(せきもんしんがく)』と呼ばれ、その後広く普及する事になります。
… ここまでのイメージを補完するのに、良い動画がありました。
石田梅岩を慕う地元有志が2011年に製作したDVDに、「石田梅岩ものがたり ありべかかりの心って?」です。YouTubeに2分間のダイジェストが上がっていたので、ぜひこちらもご参照ください。
こうして石田梅岩は、長年の独学と講釈で自らの思想を体系化しました。晩年には2冊の著作を残しています。
- 『都鄙問答(とひもんどう)』/ 元文4年(1739年)
- 『倹約斉家論(けんやくせいかろん)』/ 延享元年(1744年)
梅岩は延享元年(1744年)9月24日に亡くなり、洛東烏辺山延年寺に葬られます。60歳の生涯でした。
その後は手島堵庵らの優れた門弟の教化運動もあり、『石門心学』は全国的な広がりを見せます。
※ 亀岡の有志が製作した石田梅岩DVDについては、2種類が販売されています(2022年5月時点)。
前述の①「石田梅岩ものがたり ありべかかりの心って?」が@500円、②「~心学の租 梅岩に学ぶ・京都商道~ 先も立ち我も立つ」が@250円でした。こちらに別途振込手数料と送料がかかります。
(①②のDVDが気になる方は、財団法人 石田梅岩先生顕彰会さんにお問合せください。)
伝播する『石門心学』… 門弟たちの教化運動とその影響
石田梅岩の亡き後、その教えは江戸後期にかけて広く伝播します。門弟たちにより、『石門心学』を伝える拠点が各地に設置されました。
組織の拠点は京都・大阪・江戸などに置かれ、梅岩の教えは町人から農民、そして武士へと広がっていきます。
優れた門弟(手島堵庵, 中沢道二, 柴田鳩翁ら)による教化運動の広がり
江戸時代の後半にかけて『石門心学』が広まったのは、梅岩亡き後の中心的存在だった門弟・手島堵庵(てじまとあん)による組織化や大衆化された教化運動にありました。この拠点は「心学講舎(しんがくこうしゃ)」と呼ばれます。この「心学講舎」は、一説によると全国約170ヶ所にまで広がったとか。
手島堵庵が用いた「道歌(どうか)」も、庶民に広く受け入れられました。この「道歌」は哲学的で難しい梅岩の教えを、和歌にしてやさしく伝えようとしたものです。
その次の世代に、中沢道二(なかざわどうに)や柴田鳩翁(しばたきゅうおう)らの門弟がいます。この頃には心学は武士層にも及んでおり、依頼を受けて各地の大名や家老にまで講釈をしていました。
老中・松平定信の施策「人足寄場(にんそくよせば)」で採用された心学
江戸時代中期の老中と言えば、松平定信ですね。徳川幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫にあたり、吉宗の「享保の改革」を参考にした「寛政の改革」を推し進めました。
松平定信の「寛政の改革」の施策の一つとして、「人足寄場(にんそくよせば)」があります。当時の江戸市中は、無宿化した困窮者が流れてきて、深刻な社会問題となっていました。
この問題の対応策として、寛政2年(1790年)隅田川河口に位置する石川島(現在の中央区佃2丁目)に更生施設「人足寄場」を設置します。この「人足寄場」に無宿を収容して、職業技術を教え、休業日には心学者が訪れ講和を聞かせていたそうです。
… 手島堵庵らによって大衆化された心学は、なんと幕府の施策に採用されるまで広がりをみせました。
本題『都鄙問答(とひもんどう)』とは
ここまで、石田梅岩の人物像にふれてきましたが、ここから本題である『都鄙問答(とひもんどう)』について説明していきます。
『都鄙問答』とは?その由来や概要
先ほども触れましたが、『都鄙問答』は石田梅岩が55歳だった元文4年(1739年)に刊行された著作です。京都車屋町で講席をはじめてから、10年後となります。
2021年に中央公論社さんから、『都鄙問答』の現代語訳版が出版されました。現在の私たちでも、気軽に『都鄙問答』を手に取れますね。
『都鄙問答』の書名の由来ですが、本書の巻頭を飾る「都鄙問答の段(1-1)」の、京(都)に住む石田梅岩とある同郷(鄙)の男の問答からという説があります。「鄙」は田舎という意味合いですが、京「都」との対比は、単なる土地の距離だけではなく、自ら到達した思想との差を表しているような気がしてなりません。
本編は誰かが石田梅岩に質問をしてから、返答を返していく問答式を取っています。全四巻(十六段)の構成で、各巻で問答を全て合わせて全百四十四の問答となります。
各段には、分かりやすくタイトルが付いています。一覧表として、下記に整理しておきました。
巻 | 段 | 各巻の問答数 |
巻の一 | 都鄙問答の段 | 29 |
孝の道を問うの段 | ||
武士の道を問うの段 | ||
商人の道を問うの段 | ||
播州の人、学問の事を問うの段 | ||
巻の二 | 鬼神を遠ざくという事を問うの段 | 42 |
禅僧、俗家の殺生をそしるの段 | ||
或人、親に仕えることを問うの段 | ||
或学者、商人の学問をそしるの段 | ||
巻の三 | 性理問答の段 | 31 |
巻の四 | 学者の行状心得がたきを問うの段 | 42 |
浄土宗の僧、念仏を勧むるの段 | ||
或人、神詣でを問うの段 | ||
医の志を問うの段 | ||
或人、主人行状の是非を問うの段 | ||
或人、天地開闢の説をそしるの段 | ||
各巻の合計 | 144 |
黄色いマーカーに太字にした箇所は、このブログの主題である「日本の商道徳」という観点から、重要と判断したものです。
また、下線に太字にした箇所は、梅岩の思想と真逆な人間像がうまく描かれているので、個人的におススメしたい注目ヶ所となります。
石田梅岩と「儒教(じゅきょう)」
『都鄙問答』内では、様々な引用がされています。ここから神道, 仏教, 儒教などの引用を拾い上げてみると、約73%が「儒教(じゅきょう)」によるものでした。
◆ 儒教(じゅきょう)とは
出典:『社会人のための漢詩漢文小百科』大修館書店
孔子を祖とする学派の教え。(中略)人類の幸福・社会の平和の実現を目的とする一種の倫理学・政治学である。
孔子(こうし)は約2500年前の中国で活躍した人物で、儒教においては「聖人」と称されています。石田梅岩は、神道や仏教の引用も多くしていますが、多くは儒教によるものです。
また、梅岩も本書で「私どもの儒教(1-1-3)」などと、自らを儒者と公言しています。神道, 仏教, 儒教を横断してその思想を確立しましたが、その中心は「儒教」と見て良いのでは無いでしょうか。
参照:「石門心学の教え ①~③」
『都鄙問答』で石田梅岩が述べるのは、もちろん「日本の商道徳」に関する事だけではありません。その説の中心は、「人の人たる道」を伝える事です。
ただ、石田梅岩の言葉は哲学的で、意味がわかり難い部分が多々あります。笑 ちょっとわかり難い概念を「石門心学の教え」①~③として置いておきます。(後で役立つので、最初は読み飛ばしてください。)
◆ 石門心学の教え① /「性は理に基づく」「天人合一」の心
出典:亀岡市文化資料館 第48回企画展「心学開講280年記念 今よみがえる石田梅岩の教え」図録より
「性」は、生まれた時から天に与えられている「本性」であり、「理」は天地万物を支配する「法則」を指します。人間をはじめ全ての生物は天によって命、すなわち「性」を与えられ、天の理に従って生きているとします。
人間がもともと天地自然と一体の正直で素直なものであることを知り、それをありのままに生かすことによって貪欲・邪智をおさえ、勤勉・倹約などを勧め、人それぞれの本分を尽くして一身の平安・一家の幸福・社会の安定を築くよう主張しています。
◆ 石門心学の教え② /「心を知る」「人の人たる道」
出典:同上
「心を知る」ということは、「赤子のように無心になること」で、天に与えられた「本性」を知ることに通じるとしています。「本性」とは、人間・人格形成において最も大切な道徳・倫理観を強く反映した「人の人たる道」を実践することにありました。
当時の広範な人々に、自己の生き方の規範と社会的な役割の自覚、それに「人の人たる道」の教えが受け入れられ、人間的・経済的自立の確立に大きな影響を与えました。
◆ 石門心学の教え③ /「心の発明」
出典:同上
「人の人たる道」とは、「人が真に人たるべき営み」のことであり、日常生活に即して提唱された優れた市民道徳でもありました。これには、梅岩の商人として長く奉公した経験が色濃く反映されており、「われ辻立ちしてでもこの道を説かん」という熱い思いが込められていました。
天地自然と一体である法則に従い自らの行動を考えて実行し、安楽な心を得るために努力工夫することを、「心の発明」として説いています。
… この先「あれ~、この<性>とか<理>って何だったかな?」等と、よく分からなくなると思います。その際には、戻ってこちらを参照して下さいませ。
『都鄙問答』全巻十六段の概要(※「日本の商道徳」についての視点)
ここからは、実際に『都鄙問答』の全巻十六段の概要を見てみましょう。石田梅岩の思想は哲学的な部分も多いので、私は「日本の商道徳」についての視点を中心に触れています。その点をご留意ください。
◆ 巻の一 (全五段 二十九問答)
それでは、本書を順に追って見ていきましょう。各巻ごとに、先ほどの表を再掲していきます。
巻 | 段 | 各段の問答数 |
巻の一 | 都鄙問答の段 | 11 |
孝の道を問うの段 | 8 | |
武士の道を問うの段 | 2 | |
商人の道を問うの段 | 1 | |
播州の人、学問の事を問うの段 | 7 | |
「巻の一」の合計 | 29 |
巻の一は、全五段からの構成です。全体的に、石田梅岩はどのような思想家なのか?という立ち位置が示されているかと思います。
- 都鄙問答の段(1-1)
- 問答数:11問答(1-1-1~1-1-11)
- 問者:同郷の男
- 問いの導入:現在の亀岡市辺りから京都に出てきて梅岩の噂を聞いた
先ほど少し触れましたが、巻頭を飾るのは京(都)に住む石田梅岩と同郷(鄙)の男の問答となります。梅岩が異端の教えで人を迷わせているのでは?と、同郷の男は疑念を持っていました。一つ一つの疑念を晴らしながら、梅岩の思想の立ち位置とそこに至る経緯(隠遁の学者・小栗了雲との出会いなど)が明らかになります。
問答のやり取りの中で、「文字を正しく使えない」「手紙の文字に誤りがある事を恥ずかしく思う(共に1-1-11)」と梅岩は正直に述べています。商家で奉公しながら、独学で研鑽してきた為に詩文にまで手が回らかったとも言っています。
しかし、それらは枝葉末節であり、亜聖・孟子(もうし)が説く「心をきわめて本性を知る」ことが儒者として大事だと述べています。
- 孝の道を問うの段(1-2)
- 問答数:8問答(1-2-1~1-2-8)
- 問者:或る人
- 問いの導入:世の中で評判になるほどの孝行をしたい
よくある儒教のイメージで「年長者や親を敬う」が、あるかと思います。孔子は自分に近い所から他者へ「仁(じん)」を広げていくイメージを政治に重ねていました(孔子は政治家志望で、昔の善政を復活させようとしていた)。無条件に「年長者や親を敬え!」と言っているわけではありません。
『都鄙問答』でも巻頭の次に親孝行(孝の道)を扱うぐらいなので、梅岩の思想においても重要視していたことが伺われます。
… 導入からしてクセの強い問いですが、「孝の道」について丁寧に語られています。
- 武士の道を問うの段(1-3)
- 問答数:2問答(1-3-1~1-3-2)
- 問者:或る人
- 問いの導入:息子を侍の家に奉公に出した
農家に生まれ、商家に奉公していた梅岩が「武士の道」を語る段です。冒頭で「書物で知ったことを教えましょう(1-3-1)」と、しっかりと立場をわきまえています。
この段では、君主と臣下の関係や「奉禄(ほうろく)」といった、武士のしきたりについて持論を述べています。「奉禄(ほうろく)」は、武士のお給料です。
(※後でまた出てくるので、この言葉は覚えておきましょう)
- 商人の道を問うの段(1-4)
- 問答数:1問答(1-4-1)
- 問者:或る商人
- 問いの導入:商人としてどうすれば人間の正しい道を守れるか
商家に奉公していた梅岩の真骨頂として、「商人」を取り上げた二つの段があります。その最初の段では、一つの問いに対しての答えのみのシンプル構成です。この段で語られているのは「商人の道」についてで、「小さな利益をかさねて財産をつくるのが、商人の道です(1-4-1)」と明言しています。
… ちょうど梅岩が晩年に差し掛かるこの頃は、元禄バブル後の反動で幕府は破綻の危機にありました。第8代将軍・徳川吉宗は「享保の改革」により、幕府財政の立て直しをはかります。吉宗は幕府財政の思い切った引き締めを断行し、一方で商人への締め付けも行いました。
かつての豪商が相次いで没落する中、この頃に新興の三井や白木屋などの商人が台頭しています。家訓でも質素や倹約などが重んじられるのを見ると、元禄から享保にかけて商人の意識改革があったと推察されます。
- 播州の人、学問の事を問うの段(1-5)
- 問答数:7問答(1-5-1~1-5-7)
- 問者1:播州の人(1-5-6まで)
- 問者2:播州の人が帰った後の別の人(1-5-7)
- 問いの導入:息子に学問をさせたいが困った事にならないか
面白い問いからの導入ですが、問者は学問の弊害として「(前略)自分を偉いと思ってほかの人を見くだし、面と向かって親に不孝はしなくても、場合によっては親さえ文盲と考えるような顔をする(1-5-2)」と心配しています。
しかし、梅岩の考える学問は「そのようなことを直すものだ(1-5-3)」と捉えています。それには「聖人の心を知る(1-5-6)」事が大事だとして、心を知らないで教える儒者に対しては「ただ生き字引のようなもの(1-5-5)」と批判しています。
そして「書物を講釈するだけでは本当の儒者と言えない。心の本性を知って、正しい道で身をうるおすのを儒者というのです(1-5-7)」と結論付けています。
◆ 巻の二 (全四段 四十二問答)
巻の一では、梅岩の思想としての立ち位置が示されていました。巻の二のイメージとしては、応用編かなと思います。
巻 | 段 | 各段の問答数 |
巻の二 | 鬼神を遠ざくという事を問うの段 | 6 |
禅僧、俗家の殺生をそしるの段 | 3 | |
或人、親に仕えることを問うの段 | 9 | |
或学者、商人の学問をそしるの段 | 24 | |
「巻の二」の合計 | 42 |
巻の二は、全四段からの構成となっています。最後の段は、後世で引用が多くされる注目の箇所となります。
- 鬼神を遠ざくという事を問うの段(2-1)
- 問答数:6問答(2-1-1~2-1-7)
- 問者:或る人
- 問いの導入:なぜ日本の神道と中国の儒教の違いがあるのか
前述したように、石田梅岩は自らを「儒者」という位置づけです。巻の二では、他の宗教(神道, 仏教)に対しての立ち位置を明らかにしています。先ずは「神道」についての段です。
問答の中で「昔から神国日本の手助けに、儒道を朝廷が採用されたことを知らなければなりません(2-1-5)」と述べています。梅岩の神道に対する立ち位置としては、この箇所は分かりやすく表れていると思います。
- 禅僧、俗家の殺生をそしるの段(2-2)
- 問答数:3問答(2-2-1~2-2-3)
- 問者:或る禅僧
- 問いの導入:殺生戒を破る俗人はあさましく情けない
続いて「仏教」についての段です。この段の問答の中で仏教に対する立ち位置としては、次の言葉に表されています。
梅岩は「心のけがれをとるには仏法も役に立つ(2-2-3)」と述べています。さらに、梅岩は続けて「自分の身を修め、一家の秩序を正しくし、国全体をよく統治するためには、儒教がよいでしょう。(同上)」とし、神道とは違う距離を仏教に置いているのが分かります。
- 或人、親に仕えることを問うの段(2-3)
- 問答数:9問答(2-3-1~2-3-9)
- 問者:或る人
- 問いの導入:不孝者と言われるが孝行はどのようにすべきか
『都鄙問答』は石田梅岩の思想が問答形式から明らかになりますが、実際のやり取りと言うよりも、創作を交えながら梅岩と弟子が作り上げたと考えられます。
… そういった意味で、この段(2-3)と後に紹介する「或人、主人行状の是非を問うの段(4-5)」は、梅岩の思想と真逆な人間像がうまく描かれてるのでおススメです。
この段の問いの導入を見ると、もう不誠実な雰囲気が隠しきれていませんね。笑 問者の或る人は、話の流れから商家の長男と見受けられます。この人に昔の番頭が、親孝行をしろと口すっぱく言うので、梅岩の元を訪れ相談します。
親孝行の相談を通して、家業を潰すだらしない二代目, 三代目の跡継ぎの姿を浮かび上がらせています。
- 或学者、商人の学問をそしるの段(2-4)
- 問答数:24問答(2-4-1~2-4-24)
- 問者:或る学者
- 問いの導入:あなたが教えている事を話してください
こちらが『都鄙問答』内で、大注目の段となります。後世の人が梅岩を語る際、こちらからの引用が必ずと言って良いほど含まれているほどです。
この段では、問者が学者であるからか、梅岩も遠慮することなく問答を繰り返すのもまた必見です。言葉を荒げる事はありませんが、徐々にヒートアップしてSNS上でのレスバトルを見ている感じもあります。笑
問者(学者)からは当時の賤商観がよく表れている問も多くされ、「商人たちは、つね日ごろ、人をだまして利益を得ることを仕事としています(2-4-11)」や「商人は欲深く、いつも貪ることを仕事としている。その商人に無欲を教えるのは、猫に鰹の番をさせるのと同じことでしょう(2-4-12)」と、ボロカスに言っています。
さらに「利益を求める欲がなくて商人がつとまるとはまだ聞いたことがありません(2-4-14)」とも言われる始末です。… これらの賤商観に対し、梅岩は歴史に残るビックリ見解を残します。
◆ 石田梅岩は「商人」の存在とはたらきを肯定した
出典:「都鄙問答」中公文庫(巻の二 或学者、商人の学問をそしるの段 / 2-4-15より)
「ものを売って利益をとるのは商人の道です。(中略)
商人の商売の儲けは侍の奉禄と同じことです。」
梅岩は商人の存在と働きを、なんと当時の社会階層の最上位に位置する武士と並べて肯定しました。この見解によって、「日本の商人道」が確立します。商人は正当な利益を得るために働くんだと、堂々と打ち出した瞬間でもありました。
また、賤商観を表す古のことわざに「商人と屏風は曲げねば立たず」や「商人と屏風は直ぐには立たぬ」とも言われていました。両者ともこの当時から、さかんに流布しています。この言葉の意味として、「自分の感情を抑えて客の意向を汲む」という見解もありますが、いわゆる悪徳商法といった意味合いも含まれているようです。
… この件に関しても、梅岩は次のように述べています。
◆ 「商人と屏風は直ぐには立たぬ」の真意とは
出典:「都鄙問答」中公文庫(巻の二 或学者、商人の学問をそしるの段 / 2-4-16より)
「世間でいうことにはこういう聞き誤りが多い。まず、屏風は少しでも歪んでいれば畳むことができません。だから、地面が平らでなければ立ちません。商人もそのように、本心から正直でなければ、他の人と並び立って通用することがむつかしい。
これを屏風がまっすぐであることにたとえたものです。屏風と商人とはまっすぐであれば立つ。歪めば立たないということを取り違えて言ったものです。」
梅岩のこれらの見解により、商人の道が示され「日本の商人道」が確立されたと言っても過言では無いでしょう。
◆ 巻の三 (全一段 三十一問答)
私の観点である「日本の商道徳」では、ポイントを巻の二に置きました。『都鄙問答』全体では、こちらの巻の三がかなり重要なポイントになると思います。
巻 | 段 | 各段の問答数 |
巻の三 | 性理問答の段 | 31 |
「巻の三」の合計 | 31 |
巻の三は、たった一つの段で構成されています。たった一段ではありますが、問答数は『都鄙問答』全体では最多を誇り、内容も難解です。
- 性理問答の段(3-1)
- 問答数:31問答(3-1-1~3-1-31)
- 問者:或る学者
- 問いの導入:孟子の「性善説」に証拠は無い
先ほどの「或学者、商人の学問をそしるの段(2-4)」に続いて、問者は学者の段となります。梅岩も遠慮なくというか、少々きつめの口調で展開します。最初の問いに対しても「あなたはお好きなようにお考えください。どうせ私の言うことは分からないでしょう(3-1-1)」といった調子です。笑
この段は哲学的で難解な<性>や<理>から、儒教の本質や端の異なる仏教との違いを述べています。前述の「石門心学の教え ①~③」なども参照しながら読み進めてみてください。
◆ 巻の四 (全六段 四十二問答)
巻の三は相当ヘビーでしたが、最後の巻の四はそこまで重たくはありません。安心してラストスパートと行きましょう。
巻 | 段 | 各段の問答数 |
巻の四 | 学者の行状心得がたきを問うの段 | 3 |
浄土宗の僧、念仏を勧むるの段 | 6 | |
或人、神詣でを問うの段 | 2 | |
医の志を問うの段 | 2 | |
或人、主人行状の是非を問うの段 | 27 | |
或人、天地開闢の説をそしるの段 | 2 | |
「巻の四」の合計 | 42 |
巻の四は、全六段の構成となっています。全体的には前述したテーマ(学問や親孝行など)を補足的に述べられている印象があります。
- 学者の行状心得がたきを問うの段(4-1)
- 問答数:3問答(4-1-1~4-1-3)
- 問者:或る人
- 問いの導入:博学の人の態度が悪いのはなぜか
巻の一「播州の人、学問の事を問うの段(1-5)」と同じように、問者は学問の弊害を訴えかけます。梅岩の答えはシンプルで「その人は特に至る学問をした学者ではありません。文字芸者というものです(4-1-1)」「書物を読んでその心を知らなければ、学問とは言えません(4-1-2)」と回答しています。
… この「文字芸者」という梅岩独特の表現は、後世の人々によく引用される言葉でもあります。
- 浄土宗の僧、念仏を勧むるの段(4-2)
- 問答数:6問答(4-2-1~4-2-6)
- 問者:或る僧
- 問いの導入:仏法にはあって儒教にはない大事がある
巻の二「禅僧、俗家の殺生をそしるの段(2-2)」や、巻の三「性理問答の段(3-1)」等でたびたび触れる仏教関係の問答です。こちらも哲学的で、難解な段となっています。
- 或人、神詣でを問うの段(4-3)
- 問答数:2問答(4-3-1~4-3-2)
- 問者:或る人
- 問いの導入:親の墓参りの前に神社へ行くのはどうか
こちらは巻の一「孝の道を問うの段(1-2)」で扱われた、親孝行を補足するような段となっています。問答も二つのみで、梅岩も「親の気に入るようにしなさい(4-3-1)」とシンプルに返しているのが印象的です。
- 医の志を問うの段(4-4)
- 問答数:2問答(4-4-1~4-4-2)
- 問者:或る人
- 問いの導入:息子の一人を医者にしたい
巻の一「武士の道を問うの段(1-3)」もそうでしたが、自分の出自(商家で奉公)以外の問答もこの『都鄙問答』に加えています。この段では医の道についての見解です。
- 或人、主人行状の是非を問うの段(4-5)
- 問答数:27問答(4-5-1~4-5-27)
- 問者1:或る人(4-5-26まで)
- 問者2:或る人が帰った後の別の人(4-5-27)
- 問いの導入:金銀をためるばかりの親方について
この段は或人、巻の二「親に仕えることを問うの段(2-3)」に続いて、梅岩の思想と真逆な人間像がうまく描かれています。見落としがちですが、私が注目する段です。
問者は商家の使用人のようで、ポジション的には番頭の下の手代あたりでしょうか。この或る人は、親方について相談します。先代の親方は財産相応に金銀を使って楽しんでいたようですが、今の主人は貯めるばかりで何も楽しまない… どちらが正しいのか?という問いから始まります。
おそらく先代の時代は、華々しい元禄バブル期だったのでしょう。その後、第8代将軍・徳川吉宗の「享保の改革」もあり、「お上の政策は奢侈をかたく禁じています(4-5-1)」という時代になっていました。このようにして、今の主人はお上の政策に沿う理想的な商人として、浮かび上がってきます。梅岩の評価としても「あなたの親方は世の中の手本となるべき人ですな(4-5-4)」とべた褒めしている箇所からも伝わってきますね。
… ここで誤解してはならない点ですが、梅岩が奨励しているのは「倹約」であって「けち」ではありません。
◆ 「倹約」と「けち」の違いとは
出典:「都鄙問答」中公文庫(巻の四 或人、主人行状の是非を問うの段 / 4-5-27より)
「一般におごるものが貧しくなると恥を知らず盗みもするようになります。また身の程を知って倹約するときには、定めにかなっているので安心できるしょう。」
「おごりほど正義に害のあるものはありません。(中略)聖人が倹約を根本としおごりを退けられるのは凶作の年などに貯めておいた財産を国々へ広くほどこそうと考えるためで、その倹約が人民のためであるということを知らなくてはなりません。」
「倹約を世の中の人が間違えて、けちなことだと思うのは正しくありません。聖人が倹約と言われるのは、おごりを退けて定めに従うことです。」
梅岩の指摘として、両者の間を分けるものは「おごり」です。私の理解で大胆に意訳するとしたら、自分のためにしかお金を使わないのが「けち」となるでしょう。「倹約」はその反対に、民がもしもの時にあればそのお金が仕えるように備えておく、それが聖人の「定め」と位置づけられています。
- 或人、天地開闢の説をそしるの段(4-6)
- 問答数:2問答(4-6-1~4-6-2)
- 問者:或る人
- 問いの導入:『日本書紀』の天地開闢は奇怪な説だ
いよいよ『都鄙問答』最後の段となりましたね。梅岩や弟子が編集した書物だけに、どんな締め方を持ってくるのかと気になるところです。
日本書紀に「天地開闢(てんちかいびゃく)」の記述があります。日本の神話として、世界が誕生する様子を伝えるものです。この問者の人は「天地がまだ開けない前に誰かが生まれて、数百億万年も長生きをして、自分の見たことをのちの人に伝えたのでしょうか(4-6-1)」と素朴な?疑問を梅岩にぶつけます。
その問いに対して梅岩は「今日、学識の少ない者でもその程度のことは分かるでしょう。それに気がつかないとすれば馬鹿ではないですか(4-6-2)」と、言葉の表面をなぞるだけの姿勢を戒めています。
… この後、梅岩は「私も以前には、天地の始りの説を誤りであるとして、他人を惑わせたこともありました(同上)」と興味深い発言を残しています。ここは私の想像ですが、問者は若き日の梅岩としても成り立ちそうですね。修養を通した到達した見地から、かつて理屈者だった自分と問答をしているという… 図式です。
そうなると、「都鄙問答の段(1-1)」の京(都)に住む石田梅岩とある同郷(鄙)の男の問答も、違った図式に感じられてきます。
この最後の段の位置づけとしても、人生を通して得られた<性>や<理>による「石田梅岩の到達点」という見方もできるのでは無いでしょうか。
「日本の商道徳」を考える際、外せないのが石田梅岩や『都鄙問答』かと思います。その視点からまとめてみましたが、哲学的な<性>や<理>などは難解なので、私の理解で説明することはしていません。
深く石田梅岩を知りたい方は、中公文庫版の解説や関連書を当たってみてくださいませ。多くの人の手により、石田梅岩研究がされていますよ。