この記事は昨年(2023年)まで存在していた、都内のあるビル建築物について記したものです。そのビルは『商業界会館』と呼ばれていました。

… このビルは、昭和時代における「商人の殿堂」と言っても、過言では無いはずです。そんな記念碑的なビルがあった事を、(完全な部外者ながら)記して残そうと思います。


倉本長治と雑誌「商業界」とは

 『商業界会館』について記す前に、倉本長治と雑誌「商業界」の関係について少々触れておきます。

「日本商業の父」と慕われた、倉本長治(くらもとちょうじ)とは

 明治32年(1899年)に生まれた倉本長治(くらもとちょうじ)は、日本の戦前・戦後の商店経営において指導者的役割を果たした人物です。

倉本長治(画像出典:商業界)
倉本長治
(出典:商業界)

倉本長治は戦前から執筆活動で、日本の商店経営に影響力を及ぼしていました。戦中は新興財閥系の出版部門の編集長を務めたところ、戦後には GHQに問題視(戦争協力者と)されてしまいます。公職追放処分を受けた倉本長治は、要職に就くことが禁じられました。

… そんな経緯から、倉本長治を慕う友人たちが雑誌社を立ち上げます。彼らによって昭和23年(1948年)10月に創刊されたのが、雑誌「商業界」です。

雑誌「商業界」の誕生

 倉本長治は追放中のため、雑誌「商業界」の経営には参画していません。しかし、政治と関係の無い寄稿は許されたので、外部からの執筆という形から参画しています。

◆ 雑誌「商業界」創刊号の表紙(昭和26年10月発行)
◆ 雑誌「商業界」創刊号の表紙
(筆者所有物)

とはいえ、雑誌「商業界」は倉本長治の意を汲んでいました。初代社長を務めた蜂谷経一による創刊のことばにも日本の商業界も、本道に立ち戻らねばならないと明記されています。
(二代目主幹・倉本初夫によると、実は倉本長治が書いた文だったと判明)


敗戦後の日本の商業は、ヤミ物資によるヤミ売買が横行している状況だったのです。そんな荒廃しきった商業の現実を目の当たりにして、強い危機感があったとか。

倉本長治(画像出典:商業界)
主幹に就任した頃の倉本長治
(出典:商業界)

昭和25年(1950年)11月、当時51歳の倉本長治は追放が解除されると、ただちに雑誌「商業界」の主幹と社長に就任します。

翌年の昭和26年(1951年)2月には、倉本長治主幹就任記念として「商店経営ゼミナール」が箱根で開催されました。この研究会は、後に呼称を「商業界ゼミナール」と改め、全国から集まった商人たちの研鑽の場となっていきました。

倉本長治は日本敗戦後の商人の精神的支柱となり、絶大な支持を受けました。国からも昭和39年(1964年)藍綬褒章昭和45年(1970年)勲五等双光旭日章受章を受けています。


… 「日本商業の父」と慕われた、昭和時代の偉人・倉本長治の功績です。


善意と浄財で設立された「商業界会館」ビル

 「商業界会館」ビルは倉本長治を慕う全国の商人からの善意と浄財にて、紆余曲折を経ながら昭和41年(1966年)竣工しました(詳しくは後述します)。

下記は2022年末まで飯倉交差点で見られた、懐かしい光景です。屋上に青い広告塔が乗っているのが、かつての「商業界会館」ビルとなります。

◆ 飯倉交差点から見た商業界会館ビル(2018年11月撮影)
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虎ノ門から品川方面に走る桜田通り(国道1号線)と、六本木と東京タワーを結ぶ外苑東通りの交差点に「商業界会館」ビルはありました。残念ながら、現在は解体されてもう跡形もありません。

 次の段から「商業界会館」ビルについて、建設計画からの詳細を追ってみましょう。古い画像やビル内部の画像などは、こちらの DVD(2012年製作)資料からの出典となります。

◆ 2012年製作のDVD「店は客のためにある」
(筆者所有物)


※「株式会社商業界会館」は存続しているので、以下より建物を「商業界会館ビル」と表記します。


「商業界会館ビル」建設計画から解体まで

 それでは前半部分にて「商業界会館ビル」の成り立ちから見ていきます。竣工までのドラマチックかつ波乱に満ちた展開に要注目です。

後半はまるで栄枯盛衰さながらの、「商業界会館ビル」解体の様子をお伝えします。泣

事務所の変遷(銀座~麻布~神田須田町)

 戦後の倉本長治は、銀座の並木通りに一戸建ての事務所を構えていました。しかし前述した GHQによる公職追放処分によって手放しています。事務所への出入りを禁止されると、持ち前の反骨精神から全国各地の商店の状況を見て回る機会にしたそうです。

東京に戻ってからは、麻布の上野陽一宅跡(産業能率研究所)に移ります。私の手持ちの雑誌「商業界」創刊号を開くと、光林寺そばのこちらが事務所になっていました。


… そちらも長くはいられなかったそうで、神田須田町の屋根裏の一室に移転します。下記の地図を見ると、現在の中央通り(新橋・銀座から上野を通る道路)沿いにあったことが分かりますね。

◆ 神田須田町にあった「商業界」事務所と案内地図
(出典:DVD「店は客のためにある」, 雑誌「商業界」より)
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超奇跡的に戦火をまぬがれた、古い木造建築の三階の一角に、雑誌「商業界」の事務所が構えられます。雑誌や書籍が売れ始めると事務所の規模は次第に拡張され、事務所の移転前(「商業界会館ビル」竣工前)には四室・四十坪近くに広がっていました。

そして「同友会会館(商業界会館)」設立案と決議へ

◆ 現在の神田須田町あたり(2024年3月撮影)

 この神田須田町の古い木造建物は、事務所とは名ばかりのボロボロな状態だったようです。暗くて狭い階段は急で人とすれ違うこともできず、ろくな便所も無く、おまけに天井は一枚のトタン葺きだったとか。

… そんな状況を憂い「主幹のために、もう少しましな事務所を創って差し上げられないか」という声が、昭和37年(1962年)6月の同友会の集まりで聞かれました。この浅草の石川氏の言葉をきっかけに、倉本長治に事務所を寄贈しようという決議がされ、次々と推進グループが整備されます。


後に「全国の同友のための施設」という倉本長治の考えに沿って、同年11月には「株式会社商業界会館」の創立となりました。

【疑心暗鬼】…幻に終わった茗荷谷駅の隣接地

 出版業とは別法人の「株式会社商業界会館」は、全国同友会理事長の岩城氏とエルダー会会長の日下氏が、代表取締役として就任しました。資本金6千万円(全額払い込み)を目標に、紙面でも出資を呼びかけます。もちろん事の成り行き上、大株主はいません。配当があってもわずかでしょうから、一種の寄付のようものです。この資本の全ては不動産に投じられ、同友のための「商業界会館ビル」設立を目的としました。

昭和38年(1963年)は土地探しに追われています。同年9月には最終的には数十か所の候補地から、茗荷谷駅の隣接地が最有力候補となりました。

◆ 現在の茗荷谷駅前(2024年3月撮影)


 地主との事前の商談も99%まとまり、同年末の大晦日午後3時、いよいよ売買契約の運びとなります。先方の要求通りに全額現金を携えた岩城氏と仲介業者が、指定場所である自宅へ向かいました。


… ここでなんとも、不可思議な事態が起こります。

地主は自宅に不在、電話で契約を見送る伝達がされ、売買契約は不成立に終わってしまいました。岩城氏から報告を聞いた倉本長治は「何もかも先方の言うことに従っていたので、かえって不審な気を抱かせたか」と回想しています。

【天佑神助】…一転して飯倉の土地取得

 まるで井原西鶴の「世間胸算用(大晦日のドタバタを描いた)」を彷彿とさせるエピソードですね。しかし、大晦日の話はまだ続きがあるのです。先ほどの回想を引用したコラムの続きをご覧ください。

◆ 倉本長治コラム「この會舘を君の手で」より

『(前略)
ソレは天の配慮ということだと、その晩の岩城さんからの電話に私が云ったものだ。「天佑神助というコトバを信じなさい。何か良いことが開けて行くのだ」

そういう言葉に答えて、岩城エルダーが「実は今日、東京タワー下に77坪といわれる土地を格安に譲ろうという話が来ている。茗荷谷の話があったから、気にもしなかったが、ソレが本当にわれわれの地かもしれない」と云うのだった。

私は言下に「ソレこそわれらの地」、と叫んだ。』

※出典:雑誌「商業界」昭和40年(1965年)2月号


なななな、なんと! 茗荷谷駅の隣接地が破談したその日に、あの東京タワー下の話が舞い込んでいました。まるで井原西鶴の浮世草子さながらです。こんなドラマチックな展開で、飯倉の土地を取得する運びになったのですね。


商人の殿堂「商業界会館ビル」の着工から竣工まで

 いよいよ「商業界館ビル」の着工が迫りますが、昭和39年(1964年)倉本長治に吉報が届きます。国から藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を賜り、夫婦で皇居に赴き天皇陛下にお礼を申し述べたそうです。

この栄えの行事の後、夫婦で約60日予定で外遊(世界一周旅行)へ旅立ちます。目的は聖地巡礼で、四大聖人と言われたキリスト, ソクラテス, 釈迦, 孔子の遺跡の石を集める事です。この石を「商業界会館ビル」の礎に埋める事で、全国の同友に先哲の歩んだ道を踏みしめてもらいたいと願いました。

(この旅の時点では、孔子の誕生地である山東省曲阜へは、まだ外国人が入れない時代だったそうです。しかし、後ほど大阪の樋口氏が孔子廟から石を持ち帰り、無事に四ヶ所の聖石が揃ったとのこと。)


いよいよ着工へ(地鎮式と「聖石匣」)

 昭和40年(1965年)2月吉日、日本古来の慣習に従い「商業界会館ビル」の地鎮式が執り行われます。前述の聖石は、岩城氏夫人の手作りによる陶の小匣(こばこ)に納められました。その小匣のふたには下記の文言が記されています。

◆ 聖石を納めた小匣に書かれた文言

『商業界主幹 倉本長治が、孔子, ソクラテス, 釈迦, クリストの縁り地から蒐めた石片を此の商業界会館の礎の一つに埋める。一九六五年二月』

※出典:雑誌「商業界」昭和40年(1965年)4月号



 地鎮式を執りおこない、建設計画も急ピッチで進みます。東京都の道路拡張計画により、入手した土地の一部が都に買い上げられ、最終的には地上六階, 地下一階の「商業界会館ビル」の計画となりました。いざ設計が進むと、総額1億3千万円に及ぶことになり、第二次株式募集で3千万円(計9千万円)に増資します。

同年5月には、建築業者選定のオリエンテーションを開催。競合9社の中から、最も良心的で誠実な協力態勢を見せたと評価され、飛島建設さんに決まりました。

… いよいよ、同年6月「商業界会館ビル」の着工となります。


昭和41年(1966年)2月「商業界会館ビル」竣工

 完成直前には、工事の遅れが危ぶまれした(倉本長治自身も日曜日の朝から、工事現場に出ずっぱりだったとか)。完成前に行われたビル内部の雑誌用撮影も、殺気立った職人さんに驚かされっぱなしだった話も伝わっています。

そんな紆余曲折を経て、昭和41年(1966年)2月20日、めでたく「商業界会館ビル」の竣工式が行われます。

◆ 1966年完成後?の「商業界会館ビル」と2012年ごろの比較
(出典:DVD「店は客のためにある」)
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翌日の20日には箱根に場所を移し、第33回商業界ゼミナールが開催されました。副題に「商業界会館竣工記念」と付けられた、記念すべき会です。倉本長治はその基調講演の冒頭で、「先ず、諸君、おめでとう。それから商業界会館の建設についての絶大な御協力、ありがとう。」述べています。

… 全国の商人の善意と浄財によって、ついに商人の殿堂「商業界会館ビル」が完成したのです。


「商業界会館ビル」内をバーチャルツアーでご案内

 ここで「商業界会館ビル」の施設や装飾類を見ていきましょう。私(部外者)は中の様子が分からないので、前述の DVD資料からの出典です。
※上から順番に、下記の①~➄の画像説明は太字で紹介しています

◆ 「商業界会館ビル」内外の装飾など
(出典:DVD「店は客のためにある」)
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 ビルの正面ファサードには、円形のブロンズ彫刻が取り付けられました。直径2メートル重さは約230kgのこちらは、画像①『日本紀略』に基づく「虹が立つと開かれた古代の市」が刻まれています。

玄関へ登る十一段の階段は白大理石製で、その一段一段に「誠実・愛情・理解・信頼・友情・勤勉・好学・進取・謙虚・希望・勇気」の文字が託されているとか。

正面玄関を入ると、画像②ブロンズ製の八角柱「聖石柱」が現れます。こちらには「商業界会館ビル」出資された方々の名前が刻まれています。前述した四大聖人ゆかりの石を入れた「聖石匣」も、最終的にはこちらの根元に納められました。

1階エレベーター横の2階へ登る階段脇では、画像③倉本長治の盟友・岡田徹の詩が来訪者の心を打ちます(岡田徹は昭和32年(1957年)に他界)。壁には、岡田徹の代表作『小さな店であることを 恥じることはないよ その 小さなあなたの店に 人の心の美しさを 一杯に満たそうよ』の詩が刻まれています。

岡田徹
(画像出典:商業界)

2階に上がりホール入口前には、画像④こちらも倉本長治の盟友・新保民八の絶叫歌が現れます(新保民八は昭和33年(1958年に他界)。一枚物の大欅板の額には絶叫歌『正しきによりて滅ぶる店あるならば 滅びてもよし断じてほろびず』が金色文字で彫られています。

新保民八
(画像出典:商業界)

※かつて「怒りの新保、泣きの岡田」と称された名物講師ながら、雑誌「商業界」の黎明期に早逝しました。二人の詳細は商業界HP「商業界の礎を築いた人々(アーカイブ))」をご覧ください。



2階のホールは、人員120名を収容する講堂です。道路拡張で交通量も多くなった事も関係しているのでしょう。正面側をコンクリートで塞いで、防音に努めています。3階は画像➄同友のクラブ室として、取引先の接待も可能な豪華施設です。イタリアのベネチアン・グラス製の3基の特注大シャンデリアや真紅の敷物など、映画で見るようなゴージャスな雰囲気となっています。

4階は倉本長治の主幹室や、同友会, エルダーなどの専用室を構えました。倉本長治の肖像で使われているお馴染みのカットは、こちらの主幹室で撮られたかな?と想像してしまいます。5階は雑誌「商業界」のオフィスとして使われました。6階は上京された同友のための、宿泊施設(セルフサービス)になっています。四室の和室にシャワー設備を備え、安く宿泊できたようです。


晩年の「商業界会館ビル」エントランス(360°写真付き)

 前述したDVD資料の画像「1966年完成後?の「商業界会館ビル」と2012年ごろの比較」を見ていて、後年にファサードとエントランスの改修があった事に気が付きました。

◆ 晩年の「商業界会館ビル」エントランス(2019年11月撮影)
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晩年の「商業界会館ビル」のファサード部分、2階のホール部分に黒い覆いがされています。しかし、竣工後はコンクリート躯体と同じ風合いに見えますよね。おそらく躯体の上に、貼り付けたのでしょう。

エントランス部分の階段脇には、倉本長治が遺した親筆「商業界会館」の文字装飾や、碑文「店は客のためにある」プレートが掲げれれています。実はこの部分、当時の建設予算はカツカツだったにもかかわらず、倉本長治たっての希望で噴水が設置されていたと記録に残っています。(当初は「出来たら良いですネ」と受け流されたとか。笑)


… 偉人・倉本長治は、昭和57年(1982年)1月に82歳の天寿を全うされました。この「商業界会館ビル」改修時期はハッキリと分かりませんが、私は没後にされた気がしています。というのも、竣工後の装飾類を見ても、倉本長治その人の威光を称えるものが無いんですよね。

そんな声が上がって、碑文プレートや金色の「商業界会館ビル」建設の趣旨が、設けられたかもしれません。


 以上が「商業界会館ビル」のバーチャルツアーとなります。あと、晩年の姿を残そうとエントランス部分で360°画像を撮っておきました。マウスや指で360°ぐりぐりと動かせますので、ご査収くださいませ。

商業界ビル2(2021.11.28) – Spherical Image – RICOH THETA

お気に入りの「RICOH THETA(奇しくも倉本長治が戦前に関わった新興財閥系メーカー)」で撮影したこの360°画像は、2021年11月末の日曜日に行いました。


飯倉交差点の向こう側には、2024年話題になった麻布台ヒルズ(工事中)も見えますね。東京タワーも全身写り込んでいる貴重な記録です。撮影時期は例の感染症の真っただ中の日曜日で、もうこれ以上無い写真が撮れたと自慢させてください。笑

状況はポツポツと歩いてくる歩行者を避けながら、三脚を立てて待ちに待った 360°画像です。まぁ…とはいえ、人が写っていないので、逆にさびしさも込み上げてきます。

左下の「THETA」のロゴをクリックすると、専用サイトで全画面などフル機能が楽しめますよ。


雑誌「商業界」の休刊~「商業界会館ビル」は解体へ

 ここからは、「商業界」凋落の様子を記さねばなりません。(残念ながら)事実は事実として受け止めるのも、一ファンの務めだと思うからです。

令和2年(2020年)5月号にて雑誌「商業界」休刊

 令和2年(2020年)4月「株式会社商業界」から、破産手続き開始のアナウンスがありました。理由は「業績の悪化等」が挙げられています。

◆ 破産手続きを告げるSNS投稿と出典リンク
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雑誌「商業界」は事実上の廃刊になりました。しかし、親会社「株式会社商業界会館」は存続されているので、ここでは休刊としておきましょう。

◆ 雑誌「商業界」は2020年5月号で休刊
(筆者所有物)

通算903号の老舗雑誌である雑誌「商業界」は昭和23年(1948年)10月号として創刊され、令和2年(2020年)5月号にて終止符を打ちました。本当に残念でなりません。

 その後も「商業界会館ビル」は飯倉交差点に佇み、以前と変わらぬ光景が広がっていました。動きがあったのは翌年です。2021年11月30日「商業界会館ビル」1階に入居していた、コーヒーショップ・ファーストさんが退去の為に閉店しました。

お店に貼られた挨拶文によると、この場所で27年間営業されたとのこと。閉店の理由としては、「建物の解体が決まったので退去する」と店主の方が言っていた記憶があります。


「商業界会館ビル」解体

 そろそろ「商業界会館ビル」に動きがあるぞ… と、注視し続けたのですが、翌年2022年中の動きは全くありませんでした。


年が明けた2023年、ついに事態が大きく動き出します。1月末に訪問すると、ビルに囲いがされて解体工事のお知らせが表示されていました。あぁこの日が来たかと、身がまえた事を覚えています。

ビル解体の工事期間は「令和5年1月16日~令和5年7月31日」と表示されていました。その場で一つ思い浮かんだのは、毎月末ごろの様子を撮影しておく事です。

◆ 「商業界会館ビル」解体工事の定点観測
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… ということで、上記画像にて解体中の様子と、建設中から晩年の在りし日の「商業界会館ビル」の様子を一枚にまとめました。徐々にビルが低くなっていく様子は、ちょっと辛いものがあります。

続けて、下記は2023年4月の解体時の様子を、こっそり撮影したものです。(解体工事が休みの週末に撮影)

◆ 「商業界会館ビル」解体現場の様子(2023年4月撮影)
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もし関係者の方が見られたら、結構ショッキングな画像かもしれませんね(申し訳ありません)。特に並べた2枚目なんかは、倉本長治の親筆「商業界会館」の文字装飾が飾られた、あのエントランス部分となります。




 寂しくなる画像の後なので、ちょっと気分転換がてらに下記の動画(1分少々)をご覧ください。先ほどの解体中の画像を並べて、音楽を乗せてみました。



因みにこのフリー音楽の曲名は「Golden Days」となります。在りし日の「商業界」や「商業界会館ビル」を称えているような曲名が目に付いたので、聞いてみたら雰囲気も合っていた次第です。

拙い編集で恐縮ですが、ご容赦くださいませ。


さようなら「商業界会館ビル」

 2023年6月には解体工事も完了し、東京タワー下である飯倉交差点の風景も様変わりしました。

◆ 現在の飯倉「商業界会館ビル」跡地(2024年3月撮影)


… かつて、この飯倉の地に商人の殿堂「商業界会館ビル」が在った事を示すものは、もう何も残っていません。

ただの一ファンの私とはいえ、何かを残したくなる飯倉の光景です。そこで、エントランスにあった「建設の趣旨(エントランスに飾られた金色のプレート)」の書き起こしを、最後に記します。

◆ 「商業界会館ビル」建設の趣旨

『この商業界会館は商業界ゼミナールに集う全国の同友が、創始者倉本長治先生の遺徳と栄光をたたえ、その思想理念の中心として商いのこころを永遠に受け継ぐ堅固な意志のもとに建設された。

この碑文「店は客のためにある」は、師の親筆によるもので、商いの神髄をあらわす言葉として信奉されている。』

出典:「商業界会館ビル」エントランス



今後も倉本長治の碑文「店は客のためにある」と共に、「商業界会館ビル」があった事を記憶に留めて置きたいと思います。